特攻はムダ死にだったのか2

takase222008-09-24

「なでしこ」の写真をブログに載せようと思い、きのうカメラを持って近くの公園に行った。去年、そこになでしこが咲いていたのを思い出したからだ。三輪ほどしか咲いておらず、オートフォーカスではうまく写せなかった。とてもか細い花なのだ。これは、ネットで見つけた写真。
私はむかし、軍事ものが好きな少年だった。特に戦艦大和には魅せられ、大和と武蔵のプラモデルをいくつも作った。
艦首のくびれ、すっきりした艦橋、主砲位置のバランス・・。大和のシルエットは実に美しいと今も思う。「宇宙戦艦」として人気アニメで蘇ったのも良く理解できる。
さて、45年4月6日、大和は司令長官伊藤整一中将のもと、巡洋艦1隻、駆逐艦8隻とともに沖縄へむけ出撃した。稼動可能なほぼ全兵力を動員した、日本海軍最後の艦隊出動だった。
迎え撃つのは、米第五艦隊司令長官スプルーアンス大将で、彼は伊藤とは昵懇の仲だった。伊藤は駐米日本大使館に駐在していたことがあり、当時米海軍省情報課にいたスプルーアンスと親しくつきあっていた。スプルーアンスは尊敬する伊藤中将に艦隊決戦のチャンスを与えようとした。戦艦同士の壮烈な射ち合いという海戦の華を演出しようとしたのだ。第五艦隊の乗組員たちは、伝説の巨艦大和と対決すると聞いて狂喜したという。
しかし、特攻隊の迎撃にあたった空母18隻からなる高速機動部隊の航空機が出撃直後から大和に襲い掛かり、艦隊決戦を前に大和は沈められた。
特攻に参加した7000名の乗組員のうち約半数の3700名が死亡した。半分の犠牲で済んだのは不幸中の幸いだった。片道分しか燃料がなかったが、あまりに早く戦いの決着がつき、残った4隻の駆逐艦が生存者を救出し、追撃をかわしながら内地に戻ってくることができたからだ。

出撃が近づく大和の艦内では全員が確実に死ぬと思っていた。しかも、とうてい納得できない作戦で死ぬのだ。自らの死を自分にどう納得させられるか、乗組員の苦悩は深かった。
《出撃気配の濃密化とともに、青年士官に瀰漫(びまん)せる煩悶、苦悩は、夥しき論争を惹き起さずんばやまず》という状況にあった。論争の末の殴り合いまで起きていた。
この争いを収めたのはある大尉の言葉だった。

《痛烈なる必敗論議を傍らに、哨戒長臼淵大尉(一次室長、ケップガン)、薄暮の洋上に眼鏡を向けしまま低く囁(ささや)く如く言う。
進歩のない者は決して勝たない。負けて目ざめることが最上の道だ。
日本は進歩ということを軽んじ過ぎた。私的な潔癖や徳義にこだわって、本当の進歩を忘れていた。敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるか。今目覚めずしていつ救われるか。俺たちはその先導になるのだ。日本の新生にさきがけて散る。まさに本望じゃないか
」。》
こう考えることで、捨石になることに意味を見出そうというのだ。
これをどう受け止めるかは、私たちにかかっている。