「なでしこ隊」は泣けた

takase222008-09-22

 きょうフジテレビに行く。18階からレインボーブリッジを望む。(写真はフジの上田昭夫キャスターのブログより)
 ここを「お台場」というのは、黒船襲来に脅えた幕府が、外国の艦隊から江戸を守るために小島を埋め立て造成して海上砲台(=台場)をここに築いたから。橋の下、左が6番台場、右が3番台場。7番台場まで造られた。
 ジンネットは、20日(土)のフジテレビ「なでしこ隊−少女達だけが見た“特攻隊”封印された23日間」に製作協力した。
 この番組を担当したフジのプロデューサーに挨拶し、番組の感想を述べ、取材の苦労話などする。視聴率は16.2%だったという。
 出撃直前の「特攻隊」への奉仕を命じられた知覧高等女学校の女学生たちは「なでしこ隊」と呼ばれ、極秘任務のため隔離されていた特攻隊員たちの死への旅立ちを最も近くで見送り続けた。「なでしこ隊」の生存者、永崎(旧姓前田)笙子(しょうこ)さんの証言と、当時の貴重な日記をもとに、特攻隊と彼女たちの交流をドキュメンタリーを織り交ぜながらドラマ化した番組だ。
 その放送時間中は、私はサンプロの準備をしていて観れなかったので、ゆうべ録画で観た。とてもよかった。特攻隊員たちはみな笑顔で出撃していったと報じられたが、実際は、生と死のはざまで心は揺れ苦悩していた。家族と切り離された彼らは、その苦しい胸のうちを、わずか15歳の少女たち「なでしこ隊」には見せていたのだ。笙子さんたちが奉仕した23日間に、109人の特攻隊員を見送っている。

 なかでも強烈なエピソードは穴澤利夫少尉(当時23歳)とその婚約者だった伊達智恵子さんの物語だ。穴澤少尉は中大を繰り上げ卒業して陸軍航空隊に入った。特攻で出撃したが、誘導機の故障や天候不良などで5回も帰還していた。弱冠23歳、未練があって死に切れなかったとしても不思議ではない。最後に智恵子さんに遺書を残し、彼女からもらったマフラーをして出撃していったとき、笙子さんたち「なでしこ隊」は桜の枝を振って見送った。4月12日の第二次総攻撃の日だった。「なでしこ隊」見送りの写真がそれだ。

 ここに写っている特攻機、隼(はやぶさ)が穴澤機だった。
 伊達智恵子さんは今も84歳で健在。穴澤さんの煙草の吸殻を今も大事に持っている。彼の身に触れたものはこれしか残っていないという。今回の取材で、智恵子さんは福島県の穴澤さんの実家を訪ねた。実家には彼の軍服が保管されていた。その軍服をはじめて手に取る智恵子さん。そのまま軍服に顔を埋めて静かに泣く。智恵子さんの63年間を思うと私ももう泣くしかなかった。圧巻のクライマックスだった。智恵子さんは先週、ホームに入ったそうで、自宅での取材は今回で最後になる。

 特攻隊員の肉声も聴かせた。お父さん、お母さん、お体を大切にしてください、いってまいります・・・。ふり絞るように語り掛ける声が切ない。この肉声を録音した音盤は、日本には残っていない。こういう資料はぜひ政府が収集して残してほしいものだ。
 特攻の母として知られる「富屋食堂」の鳥濱トメさん(薬師丸ひろ子が演じた)も登場するが、その娘、礼子さんも「なでしこ隊」だった。トメさんは終戦後、「特攻を送り出すのではなく、止めるべきだった」と言ったという。
 笙子役の成海璃子もよかった。彼女はいま当時の笙子さんと同じ15歳だ。食糧難の時代にしてはやや肉がついているが、可憐で健気な少女を熱演していた。
 ネットをみるとブログ等で非常に大きな反響があったことがわかる。フジテレビのホームページには、「感動しました」、「再放送をお願いします」と視聴者からのたくさんのメールが寄せられている。ほとんどが10代、20代である。若い人たちがしっかり反応しているのがうれしい。
 こんなメールがあった。
 《17歳の娘が、「この子達って、私より若いんだよね・・・。簡単に死ぬとか、死ねとか、言ったらいかんよね・・・」と、ぼろぼろ涙を流してつぶやいていました》
 お母さんからだろう。
 若者が簡単に自殺したり人を殺したりするたびに、「命の尊さを教えないといけない」などとテレビでコメントされるが、死をきちんと見せることが一番の教育になるのではないか。