勢古浩爾、幸福論を語る

毎日新聞の土曜の夕刊に、勢古浩爾さんが写真入りで大きく紹介されていた。「新幸福論」という欄のインタビューである。
私はかつて勢古さんのファンで、10年程前は、彼の『自分をつくるための読書術』とか『こういう男になりたい』などの人生論を好んで読んでいた。
彼の本を初めて読んでの感想は、「この人と友達になりたいなあ」であった。彼が批判する人、好きなモノなど、私と非常に感覚が似ていたからだ。
勢古さんは勤めながら物書きをしていた、サラリーマン作家で、感覚が庶民そのものである。例えば、『思想なんかいらない生活』の内容は;
《「思想」というものは、私たちの生活に必要なのだろうか?あるいは、思想や哲学が、今のこの状況下の私たちに、果たして有効な何かを示唆してくれるのだろうか?本書では、日本の各方面で活躍中の知識人を片っ端から取り上げて、彼らの思考・表現活動が、いったいどれだけの意味をもち、一般読者大衆にどれだけの影響を与えているのかを考え、「ふつうに暮らすふつうの人びと」の立場から「思想・哲学」を問いなおす。》(「BOOK」データベースより)
4年前に定年退職したあとは作家業に専念している。公園で本を読み、喫茶店に回り、夜はテレビでバラエティを見たあと原稿を書く毎日だという。
「新幸福論」ではこんなことを言っている。
《生きがいなんて贅沢。なくても生きていける。息しているだけだと言われるかもしれないが、それでも構わない。(略)
幸福という言葉があるから求めちゃうんでしょうね。この世の中はほとんど人間が頭の中で考えて作ったフィクションでできている。(略)
「何のために生きるのか」という問いもフィクションなら、「幸福になるため」という答えもフィクション。フィクションなんだけど我々はその中でしか生きられない。結局、どういうフィクションを自分が選んで生きるかです。》
そして、空襲で両親を失い、親類の家に妹を預けて、特攻に出た少年兵の遺書を紹介する。
《「しーちゃん、お兄ちゃんは今から特攻に行きます。しーちゃんが作ってくれた人形を背中にくくりつけていきます。立派な人になってください」。整備兵が、特攻機に走っていく少年兵の背中で人形がぴょんぴょんとはねるのを見ていた。
こういうのを読むとね、考える基準になります。贅沢はいうもんじゃない。》
勢古さんはいつも普通の人に向かって、君たち今のまま生きてていいんだよ、と自己肯定感を与えようとしている。そして最後の締めくくりも勢古流である。
《もちろんあの特攻兵たちも、戦争がない今の時代に生きていれば腰パンしてたに違いないんだけれどね。》