ベルリンの壁崩壊秘話−1

takase222008-01-28

きのうの朝も氷が張って冷え込んだ。散歩していたら、近くの庭園に見事な冬牡丹が咲いていた。なぜ、わざわざこんな寒さのなかで咲くのか、と考えていたら、花の「意思」さえ感じて、写真を撮りたくなった。
インドネシアを22年間、独裁者として治めたスハルト元大統領が死去した。私は1985年にカメラマンとして彼を撮影したことがあったが、当時は権力の絶頂期で、万全の支配体制に思えた。98年に公共料金値上げ騒動で辞任に追い込まれたとき、独裁政治が崩れる際のあまりのあっけなさに驚いたものだ。
私はかねてから、北朝鮮金正日体制は「独裁」ではないから、打倒すべきだ、と主張している。ここで「独裁」というのは、このスハルト型の「普通の独裁」を意味する。北朝鮮はそのタイプではなくて、ナチズムやスターリニズムあるいはポルポト体制と同じ「全体主義」であり、「共存」することはできないからだ。
拉致問題や核問題の解決も体制の打倒(口当たりよく「民主化」と言ってもよい)なしには完全解決は難しい。だから、北朝鮮全体主義をどう崩すかは、日本人にとって重要な課題である。(詳しくは、私のほとんどアジテーションのような論文「金正日体制は平和的に打倒すべきである」を参照されたいhttp://moura.jp/scoop-e/seigen/pdf/20060417/sg060417_kimu_01.pdf
全体主義は「独裁」と違って、非常に倒れにくい。ものすごい数の人民が死んでも体制は揺るがない。ソ連の農業集団化、中国の大躍進と文革などで数千万人が命を落としている。大躍進だけで三千万人という気が遠くなるような数である。ポルポト政権下では人口の五分の一が殺され、北朝鮮は飢餓で三百万人(人口の15%)が死んでいる。一方、スハルト型の普通の独裁は全く違う。日本をはるかに超えるインドネシアの人口のうち、もし、数万人でも餓死が出れば暴動になり、政権危機になったのは間違いない。
全体主義も内部変化を起こす。ソ連全体主義体制は、おそらく1930年代から50年くらいまでがピークで、53年のスターリンの死亡からは、なだらかに下降線を描いて80年代にはすでに異質なものになっていたと思う。
私の見るところ、北朝鮮全体主義も、1970年代から80年代が絶頂期で、金日成死亡(94年)以降はその支配力を低下させてきている。いろいろな綻びも出てきて、ぐらつき始めている。チャンスである。
金正日体制打倒を早めるためには、1989年にはじまる東欧革命から91年のソ連邦解体にいたる過程を教訓にできるはずだ。北朝鮮全体主義は、スターリニズムの移植である。東欧諸国は、スターリニズム全体主義から次第に変質して「独裁」となった、いわば「全体主義くずれ」であり、北朝鮮と根本において共通点があるからだ。
そういう観点から、とても興味深いテレビ番組があった。
「証言でつづる現代史 こうしてベルリンの壁は崩壊した」(NHK BS1、1月12日と19日)だ。昨夜再放送していた。以下、番組案内より;
《1989年11月9日深夜。東西ベルリンを隔てていた壁の門が開いた。(略)当時「社会主義の優等生」と呼ばれた東ドイツで、分厚い壁がもろくも崩れ、国家体制そのものも瞬く間に崩壊へと向かった。実はその発火点というべき動きが、ベルリンから遠く離れた古都ライプチヒを舞台に起っていた。
800年の伝統を誇る教会を拠点にして、体制内変革を求める市民運動が10年以上にわたって密かに行われてきた。その運動が89年春以降次第に拡大、先鋭化。やがてベルリンなど他の都市での運動へと飛び火し、ベルリンの壁崩壊につながっていく・・・》
東欧革命のさきがけがベルリンの壁崩壊であり、その「発火点」がライプチヒ民主化運動にあったという。とすれば、ライプチヒは、ソ連東欧全体の体制崩壊の端緒となったとも言えるわけだ。
(つづく)