ナチ党組織の指導者だったローベルト・ライは「ナチ・ドイツでは、なお私生活を送りうるのは眠っている間だけのことだ」と言ったという。
全体主義支配の特徴をよく言い表していると思う。
幼稚園レベルからヒトラーの神聖化が行われ、教室の壁にはヒトラーの肖像とハーケンクロイツ旗が飾られ、保母と子供たちは互いに「ハイル・ヒトラー」というドイツ式挨拶を交し合った。絵本やお話もヒトラー総統に対する情動的な結びつきを生み出すものが選ばれた。子供たちは声を合わせてとなえる。
《わたしたちの力は小さいが
わたしたちの勇気は大きい。
しかし、いっそう大きいのは
総統!あなたにたいする私たちの愛です》
また、父母への愛と総統への忠誠が結び付けられる。
《お父さんに従う者は
総統を尊敬する。
お母さんを愛する者は
総統に奉仕する。
わたしたちが学び作るものを
総統は必要とされているのだ》
子供たちが唱えた食前の感謝のことばはこうだ。
《総統よ、神から私に与えられた私の総統よ!
私のいのちを長く保ち守ってください。
あなたはドイツを深い苦難から救い出して下さいました。
私は今日も私の日ごとのパンをあなたに感謝します。
どうか私の傍らにいつまでもとどまり、私を去りませんように。
総統!私の総統!私の信仰、私の光!私の総統、万歳! 》
こうした教育は、より大きくなって高校レベルでも行われる。高校の歴史の教科書の一節にはこんな記述が;
《経済の衰退と道徳的退廃が手に手をとって進行した。ユダヤ人たちはそれをリードした。彼らは叫んだ。「人種主義と家族感情とを打倒せよ!」と。新聞で、書物で、映画で、ラジオで、彼らは、われわれドイツ人にとって神聖なものを嘲笑し掘りくずした。・・・いつの日にか、この国に救世主は到来するだろうか。今、その方は到来しつつある!すでに褐色の縦隊は街頭を行進している。総統は、ドラムを打ち鳴らしつつ訴える。「ドイツよ目覚めよ!」と》
(以上、引用は宮田光雄『ナチ・ドイツと言語』より)
北朝鮮を彷彿とさせるではないか。全体主義というのは、やはり共通なものを生み出すのだなあと思う。
かつて私が経験したフィリピンのマルコス独裁やインドネシアのスハルト独裁など、「普通の独裁」とは全く異なる。
(つづく)