自分の死を撮影したカメラマン

8日、ワシントンDCに着いたら、気温は7度と機内アナウンスがあった。
紅葉がきれいだ。日本でせわしくて周りを見回す余裕がなかったが、さすがに外国に来ると景色に目をやるので、やっとああ秋なんだなと気がつく。

在日ビルマ人共同実行委員会(JAC)が、11月12日(月)から16日(金)と19日(月)〜11月22日(木)の2週にわたって、渋谷の国連大学前で抗議行動を行なうという。
ミャンマー軍政への国際的な抗議がわき起こっていることには、長井さんの死が撮影され、世界中の人がそれを見たことが非常に大きな役割を果たしている。映像の力をあらためて見せつけられた。
実際には、ジャーナリストの取材中の死が撮影されることはきわめてまれだ。
長井さん以外には、10月5日の日記で紹介した、79年ニカラグアで内戦取材中に射殺されたアメリカABCのビル・スチューアート記者しか思いつかない。
ところが最近、もう一人取材中の死が撮影されたジャーナリストがいたのを思い出した。
1985年9月9日、日本電波ニュース社バンコク特派員だった私は、東京からの早朝の電話で起された。
上司が「そっちでクーデターが起きているらしいね。テレビの臨時ニュースでやってるよ」と言う。ええっ?
なんとも恥ずかしい話だが、こうして私は東京からの知らせに仰天して、ビデオカメラをかかえて家を飛び出した。こういうのを「押っ取り刀」というのだろう。
放送局などいくつかの拠点に戦車や装甲車がいるだけで、市内はおおむね平穏に見えた。軍の一部が反乱を起したというのだが、戦車や兵士の周りには野次馬の市民がたむろしており、緊迫した映像を撮るのに苦労したぐらいだ。
通常、タイの軍部がクーデターを起す場合、死傷者が出ることはほとんどない。王室が動きウラで話がつくからだ。

このときは、数時間で反乱軍は降伏し、クーデター未遂と表現するにはおこがましいほど小規模な反乱は収まった。
ところがこのとき、ジャーナリストが二人死亡していた。彼らが唯一の犠牲者だった。
オーストラリア人のカメラマンにして記者のニール・デイビスと同僚のサウンドマンのビル・ラッチ(アメリカ人)だった。その名前を聞いてみな驚いた。ニールは、インドシナ戦争で「伝説」となった歴戦のジャーナリストだったからだ。
1975年4月30日、サイゴンの大統領府に北ベトナムのT−54戦車が突入するシーンは、ベトナム戦争終了を象徴する映像だが、この大スクープ映像を撮影したのがニールである。
ベトナムカンボジアで何度も大怪我をしながら、10年以上も前線に通い続け、多くのスクープをものにした。
インドシナの後は、バンコクをベースに、アンゴラスーダンウガンダレバノンなどの紛争地をめぐり、シリアでは勾留されたこともある。彼の名前の前には、「不死身の」とか「怖いもの知らずの」といった形容詞がつき、バンコクの外国人記者クラブでは、一目も二目も置かれる存在だった。
ニールは戦車が出動した陸軍のラジオ局前で取材していた。ラジオ局をどちらが取るかで、門をはさんで主流派と反乱軍が睨みあっていた。ニールはラジオ局の塀の前に立ってレポートしようとした。そのとき突然、轟音が響いた。戦車がラジオ局に向けて砲撃し、砲弾が塀に炸裂した。すぐ近くにいたニールを砲弾の破片が貫き、彼は即死した。
まさか実際に砲撃するとは思わずに、ニールは反乱側の戦車の正面位置で撮影しようとしたのだった。
数え切れないほどの危険極まりない現場を生き延びた英雄が、喜劇のようなちっぽけな小競り合いで死んでしまうとは・・・。バンコクのメディア関係者のなかでは、クーデター未遂よりニールの死の方がはるかに大きな話題になった。私が駆けつけたときには、すでに遺体は運ばれ、地面の血のりと、砲撃で破壊された塀だけを撮影した記憶がある。
そして彼の死は、もう一度我々を驚かすことになる。
砲撃直前にニールがスイッチボタンを押したカメラが、そのまま録画を続けていたのだ。
(続く)