伝説の戦場カメラマンの訃報

takase222011-11-01

きのう、訃報を受けた。
《フリージャーナリストの馬渕直城氏(まぶち・なおき)が10月29日午後7時44分、千葉県茂原市の病院で死去、67歳。千葉県内のホテルの風呂で意識を失った状態で見つかり、死因は窒息死だった。東京都出身。(略)
 70年代、ベトナム戦争を現地で取材。70年代後半に虐殺などで多数を死に追いやったカンボジアの旧ポル・ポト政権も取材した。著書に「わたしが見たポル・ポト キリングフィールズを駆けぬけた青春」などがある》(共同)
伝説の戦場カメラマンで、ベトナム戦争を知る数少ない人の一人だった。戦場で危ない目にもたくさん遭ってきた馬渕さんが、温泉で亡くなるとは。
彼は、唯一の日本人ジャーナリストとして、1975年4月のプノンペン陥落に立ち会ったことで知られる。映画「キリングフィールド」に、逃げ遅れた外国人がフランス大使館に集められるシーンが出てくるが、その中にいたわけだ。
そのあと現在までずっと、馬渕さんはタイを拠点にした
政変でカンボジア難民がタイに流出し、たくさんの若いフリージャーナリストが国境の町、アランヤプラテートに集まった。また、このカンボジア難民問題は、日本の海外でのNGO活動が生まれた原点ともなった。当時、このあたりで活動した人のあいだでは、馬淵さんはよく知られた存在だった。
かつてアジアに出かけるバックパッカーが必ず読んだ『バンコク楽宮ホテル』という小説にも、馬渕さんがモデルのジャーナリストが登場する。
はじめの奥さんがカンボジア人、のちにタイ人と結婚してそれぞれお子さんがいる。十数ヶ国語をあやつり、タイ語クメール語もぺらぺら。現地にどっぷりと根を下ろした生き方は、誰にも真似のできないものだった。
私はタイに7年以上住んだので、馬淵さんとはいろいろ思い出がある。
80年代には、まだ内戦の続くカンボジアの反政府ゲリラ取材の注文をよく受けた。タイ側にある難民キャンプは、それぞれのゲリラ派閥(ポルポト派、シハヌーク派、ソンサン派)のコントロール下にあり、そこでコネをつけて、カンボジア国内の各派支配区に潜入するのだ。
最も需要があったのはポルポト派で、私も国境の川を渡ってポルポト派支配区の村に入って取材したものだ。入ると、黒づくめの少年のような兵士がニコリともしないで銃をこちらに向けてくる。
ポルポト派=虐殺者というイメージがあるから、取材に入ることは連絡が行っているはずだとは思いながらも、ぞっとしたものである。
馬淵さんはポルポト派との太いパイプがあり、1ヶ月以上にわたるポト派への長期従軍取材を敢行したこともあった。当時、こんな従軍取材がやれたジャーナリストは、世界中で馬渕さんだけだったはずだ。
その映像をバンコクの馬渕さんの自宅で見せてもらったことがある。ベトナム軍と戦闘になって、カメラのすぐそばでポト派兵士がカラシニコフを連射しているシーンが映っていた。相当に危ない取材である。
危ない目には何度もあったが、とびきり怖かったという話してくれた。あるとき、馬渕さんが直接には知らないポト派の兵士に遭遇し捕まってしまう。監禁されていたが、しばらくして兵士がやってきた。銃を突きつけ、あるところへ連れて行くと言った。そのとき、兵士の目が異様に恐ろしく、「殺される!」と思ったそうだ。
「怖くて、しょんべんが、じゃーっともれてきた。怖いとちびってしまうというのは本当だね」と馬渕さんはけらけら笑いながら言った。地雷原も戦場も怖くないと思われていた、まさに「伝説」の人なのだが、とても正直で率直な人だった。
ビルマの反政府ゲリラや麻薬製造・密売などの取材では、よく現地で一緒になった。馬渕さんは、どこに行っても言葉が分かるので、取材対象への食い込み方は、とてもかなわなかった。
先輩として尊敬していたが、情勢の把握の仕方は私と全く違っており、よく論争した。
馬渕さんは、ポルポト派による「カンボジア大虐殺」は嘘だと主張していた。カンボジアには、白骨が大量に掘り出された虐殺跡がたくさん発見されているが、あれはベトナムのやらせだとまで言うのだった。
数年前に会ったときには、「日本人の先祖はクメール人だ」と真顔で言っていた。
でも、何を言っても、馬淵さんだから、と面白がられたのは、人柄というものだろう。
女優の馬渕晴子とはいとこだと聞いたことがある。
ご冥福を祈る。
どんどん昔の仲間が亡くなっていく。
自分に残された時間を思わざるをえない。
(写真はアジア記者会での報告のとき)