馬渕直城さんのお通夜にて

takase222011-11-03

一昨日、飯舘村菅野典雄村長に会いに、福島市飯野町に行った。
6月22日以来、飯舘村の村役場は、飯野町の役場に間借りしているのだ。
福島駅からバスに乗って50分。美しい田舎の風景が続く。
稲刈りが終わった田んぼには、昔ながらの稲杭やはぜ架けが見える。
「正しい農村」だなあ。
菅野村長の話はまたいずれ紹介しよう。
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昨夜は、千葉県柏市馬渕直城さんのお通夜だった。
何人もの懐かしい顔に会った。
水俣の取材で知られる写真家の桑原史成さんに挨拶。つい先日、石牟礼道子の『苦界浄土』を読み、桑原さんの名前を本の中に見つけて、いまどうされているかと思っていたところだった。飄々とした雰囲気は昔のままだが、もう65歳だという。桑原さんはベトナムも撮影しており、初めてお会いしたのは80年代前半のハノイだった。そして89年だったと思うが、サハリンの残留韓国人取材でご一緒させてもらった。3年前、島根県津和野に「桑原史成写真美術館」ができたそうだ。
食の文化人類学的考察で知られる森枝卓士さんとは、長くご無沙汰していたが、若々しくて驚いた。森枝さんは水俣出身で、ユージン・スミスにあこがれて写真家になったという。タイ国境のカンボジア難民問題が大きなニュースになっていたころ、タイにわたり、バンコクの馬渕さんの自宅に居候していた。カンボジア人の奥さん、ヘン・サイホンさんとの間に娘さんが生まれて間もないころで、森枝さんは娘さんの子守もしたそうだ。
写真家の三留理男さん、竹内正右さんなど十数年ぶりにお会いする人もいて、歳月を感じた。
私がタイにいた80年代、ベトナム戦争で鳴らした戦場ジャーナリストたちは、バンコクに集まっていた。
馬渕さんは、ポルポト派(クメール・ルージュ)のプノンペン入城を撮影し、その後、ポルポトに2回もインタビューした英雄。北ベトナム軍のサイゴン入城を撮影したABCのニール・デイビスは、タイの外国人特派員協会の幹部だった。ニールが、タイのクーデターで死んだときには、たしか馬渕さんが彼の死体を引っ張って運んだと記憶している。http://d.hatena.ne.jp/takase22/20071111
今から思うと、「伝説の戦場ジャーナリスト」たちに直に触れることができて私は幸運だった。
お通夜のあとの宴会では、ベトナムカンボジアの戦場取材の話に花が咲いた。馬渕さんはカンボジアでの戦闘を何度も取材し、近くに落ちた砲弾で負傷、破片が体内に残った。それを「人間の体は鉄分を必要とするから」と笑っていたと古い友人が話してくれた。
豪放な性格で、体も頑丈だった。よく一緒にゴルフをしたが、ドライバーの飛距離がものすごく、バンコク記者会のドラコン賞はいつも彼が取っていた。危ないところに一番乗りするのは馬渕さんで、怖いもの知らずという印象が強い。
プノンペンの空港がポルポト派に攻撃され、大きな火事が起きたときのこと。馬渕さんはカメラを持ってどんどん火に近づいていった。最後は、画面全体が火でいっぱいになってしまったという。被写体に突っ込んでいく馬渕さんの特徴の一面かもしれない。火災はむしろ遠くから俯瞰しないと全体の状況が分からないのだが。
それにしても、馬渕さんはなぜポルポト派の虐殺を否定しようとしたのだろう?宴会の席でも議論になった。
馬渕さんは、侵略される側は常に正しいと考えていたのではないか。アメリカの侵略の犠牲になったカンボジア。その後は、ポルポト派を駆逐しようとベトナムが侵攻してきた。ベトナムが侵略者でカンボジアが侵略の犠牲者だから、カンボジアが虐殺などやったはずがない、というふうに。
また、ポルポト派の虐殺は本当かが議論されていたとき、カンボジアに長く滞在し、現地に詳しい人ほど、否定的だったという。あんなにおとなしいカンボジア人が虐殺などするはずがないというのだ。馬渕さんもカンボジア人が大好きで、身びいきになったのだろうか。
虐殺問題では何度も熱く論争したが、もっと深層にある馬渕さんの気持ちを聞いてみたかった。