「岸田文雄首相は13日の内閣改造で、最側近の木原誠二前官房副長官を交代させる苦渋の決断を下した。 木原氏の妻の元夫が死亡した事案に絡み、警視庁が妻にも事情を聴いていたとの記事で週刊文春が追及を強めており、これ以上続投させれば木原氏の将来を左右しかねないと判断した。 だが、嶋田隆首席首相秘書官とともに首相の政権運営を最前線で支えてきた木原氏が官邸を去る影響は小さくない。」(産経新聞)
木原氏の疑惑は、妻が事情聴取を受け、政治権力をつかってその捜査に圧力をかけたというきわめて重大なもの。これを『週刊文春』が「妻」に事情聴取した元警察官の実名証言など十分な根拠をもって追求した。法治国家としての根幹が問われる問題を、テレビ、新聞など他のマスメディアが報じないのは異様だ。
産経は「苦渋の決断」で官房副長官を交代させるというが、「近く自民党幹事長代理に就く見通しで、党総裁である首相を懐刀として支える構図は続きそうだ」と読売。このまま「側近」として岸田政権のかじ取りに加わるようだ。
マスメディアはどうせ追求しないだろうとあまく見られている。マスメディアが、自主規制でジャニー喜多川の性加害を報じなかったことを反省するのであれば、今からでも遅くないから矜持をもって、木原誠二氏の疑惑を取り上げてほしい。
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関東大震災をきっかけに起きた朝鮮人虐殺事件、亀戸事件、大杉事件の「三大テロ」事件を、日本近代史のなかでどう位置付けるか。
戦後、左派の日本人歴史学者は三つの事件を「白色テロ」事件として並列的に論じた。
「この朝鮮人虐殺事件をふくむ亀戸事件、大杉事件などの三大テロ事件は『第一次共産党事件』とあいまって、(略)ようやく大衆化しはじめた日朝人民の連帯運動をふくむ日本の革命運動に大きな打撃を与えた」(犬丸義一氏)
これが戦後の「科学的歴史学」の立場に立つ日本人歴史学者の通説だったという。
本ブログ前号で紹介した在日の研究者、姜徳相(カントクサン)氏が、これを強く批判した。
「個々の生命の尊厳に差のあるはずはないし、異をとなえるわけではないが、家族三人(筆者注:大杉事件の犠牲者)の生命、10人の社会主義者(注:亀戸事件の犠牲者)の生命と六千人以上の生命の量の差を均等化することはできない。量の問題は質の問題であり、事件は全く異質のものである。異質のものを無理に同質化し、並列化することは官憲の隠蔽工作に加担したと同じであるといえよう。前二者が官憲による完全な権力犯罪であり、自民族内の階級闘争であるに反し、朝鮮人事件は日本官民一体の犯罪であり、民衆が動員され直接虐殺に加担した民族犯罪であり、国際問題である。」
説得力ある、根本的な問題提起である。
そこで、「民族犯罪」という観点から、日本民衆がなぜ簡単に「朝鮮人来襲」の流言にのせられたかを見ていこう。
もう「古典」といえる吉村昭『関東大震災』(文藝春秋1977年)は、流言が刑務所周辺から出た可能性を指摘する。
《災害地域には、東京府に小菅、巣鴨、市ヶ谷、豊多摩、横浜市に横浜、その他浦和、千葉、甲府の各刑務所と小田原少年刑務所があって、多数の囚人が在監していた。
地震と同時に刑務所の建物も倒壊し、囚人の脱獄も可能な状態になった。当然刑務所周辺の住民はそれを知っておびえたが、かれらの口から伝わった話がいつの間にか急激に膨張し、具体性をそなえた大規模な流言に発展した。その流言は種類が多く、
「東京の刑務所の囚人は、一人残らず釈放された」
「市ヶ谷刑務所から解放された囚人は、焼け残った山の手及び郡部に潜入し、夜に入るのを待って放火する計画を立てている」
「巣鴨刑務所は倒壊し、囚人が集団脱走し、婦女強姦と掠奪を繰り返している」
という不穏なものであった。》
《事実、横浜刑務所では、監房その他大半が焼失・倒壊する被害を受けたため、負傷者をのぞく約千人の全囚人が二十四時間の法定時間内に帰ることを条件に釈放された。》
囚人たちは「かなりの数が帰所し」たが、「中には逃走した者もいて」、逃走者の逮捕に努力したという。
また、《東京府の各刑務所では、地震発生時に例外なく険悪な空気に包まれた。囚人たちは、烈震とそれにつづく火災発生におびえて、所外に出してくれと騒ぐ。各刑務所での被害は大きく囚人たちの脱走も十分に予想され、所員はその逃亡を防ぐのに腐心した。》
司法省は陸軍省に東京府の四刑務所への軍隊の出動を依頼したが、刑務所内ではさまざまな騒動、騒擾が発生した。豊多摩刑務所では、囚人と看守がもみ合い、「その怒号が所外の住民の耳にも達したらしく、町の所々で半鐘が乱打される音も起り、あたり一帯は騒然となった」。
巣鴨刑務所では囚人の騒擾を抑えるため発砲までしている。
《囚人に関する流言は、数日間にわたって各方面に流れていたが、大震災の起った九月一日午後から湧きはじめた一流言は、時間の経過とともに恐るべき規模となって膨張していた。それは、他の多くの流言を押し流すほどの強烈さで、東京、横浜をまたたく間におおいつくすと同時に、日本全国に伝わっていった。
大地震が起ってからわずか三時間ほど経過した頃、すでにその奇怪な流言は他のさまざまな流言にまじって人々の口から口に伝わっていた。それは、
という内容であった。
その流言は、日本の社会が内蔵していた重要な課題を反映したものであった。》(P156~160)
この流言はなぜ「他の多くの流言を押し流すほどの強烈さ」で伝わっていったのか。
(つづく)