関東大震災の虐殺100年によせて4

 9日のTBS「報道特集関東大震災朝鮮人虐殺を特集した。

9月10日の本ブログ記事に登場する船橋無線電信局(報道特集

番組では9月3日の内務省警保局からの電文も紹介された(報道特集

 冒頭、最近発見された大震災の「絵巻物」が紹介された。全長32メートルで時系列に震災の様子を描いているが、そこに朝鮮人虐殺の生々しい描写がある。

絵巻物より(報道特集

絵巻物より(報道特集

 埼玉県本庄市の事件には戦慄を覚えた。いきり立った群衆が、警察署になだれ込み、「保護」されていた朝鮮人を襲って80人以上を殺害した。当時の巡査が、その様子を語った記録がある。

元本庄署巡査の語る事件の全ぼう  新井賢次郎(故人)

(前略)日本人の残虐さを思い知らされたような気がした。何百人という群衆が暴れまわっているのを、一人や二人の巡査では、とうてい手出しも出来なかった。こういうのを見せられるならいっそ死にたいと考えたほどだ。

 子供も沢山居たが、子供達は並べられて、親の見ているまえで首をはねられ、そのあと親達をはりつけにしていた。生きている朝鮮人の腕をのこぎりでひいている奴もいた。それも、途中までやっちゃあ、今度は他の朝鮮人をやるという状態で、その残酷さは見るに耐えなかった。後でおばあさんと娘が来て、「自分の息子は東京でこのやつらのために殺された」といって、死体の目玉を出刃包丁でくりぬいているのも見た。・・・(『かくされていた歴史』より)

元巡査の証言(報道特集

今も残る本庄警察署の建物(報道特集

 なぶり殺しである。同胞である日本人がここまで残酷になれるのか・・。信じたくない恐ろしい光景だ。私がもし当時の朝鮮人の立場だったら決して日本人を許せない気持ちになるだろう。

 虐殺のいくつかの例については―

takase.hatenablog.jp


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 きのう本ブログに、1970年代以降、民間の研究者や市民が、朝鮮人虐殺という歴史の闇に光を当てる努力を重ねてきたと書いたが、主導的に調査、研究を行ってきたのは、在日韓国・朝鮮人の研究者や活動家だった

 「三大テロ」事件のうち、大杉栄らが殺された「大杉(甘粕)事件」および河合義虎、平沢計七ら労働運動家社会主義者が殺害された「亀戸事件」朝鮮人虐殺では、政府の対応も国民の関心も大きく異なっていた。

 内閣のHP(「災害教訓の継承に関する専門調査会報告書」平成21年3月)によれば―

「一連の事件のうち最後のもの、すなわち9月16日発生した東京憲兵分隊甘粕正彦憲兵大尉らによる大杉栄他2名殺害事件は、同月24日には軍法会議で起訴され、最も早く表面化した。

 これは、警察が憲兵隊による大杉らの連行を確認しており、その行方不明を知って後藤内相が閣議の場で問題にしたからである。田中義一陸軍大臣は、状況を把握すると直ちに戒厳司令官を更迭し、20日に甘粕大尉への監督不行届を理由に憲兵司令官と東京憲兵隊長を停職処分にしたことを発表している。甘粕大尉らの軍法会議での審理の過程で、憲兵が甘粕事件以前に亀戸警察署での社会主義者殺害を知っていた旨を証言したために亀戸事件が明るみに出たが、報道は禁止され、10月10日に至って警視庁が4日の亀戸署内での軍隊による労働運動家10名及び自警団員4名の殺害事件として亀戸事件を公表した。 甘粕事件、亀戸事件に関しては、報道が解禁されるとともに話題となり、例えば、雑誌『改造』の同年11月号は、大杉の追想と両事件の関係記事で満たされた。 

 朝鮮人の迫害は、同時代には誰の目にも明らかであった。初期には流言も交えた様々な新聞報道がなされ、流言の根拠がないことがわかった後の回想や評論では、誤解による悲惨な事件として回顧される。朝鮮人を助けた内地人の美談が意識的に報道され、そのような行動が賞賛された一方で、民間人が検挙され、被告として裁判が行われると、流言が官憲によって流され、あるいは殺傷が官憲によって許容されたとして、朝鮮人を迫害した自警団を弁護する論調も生じた。」

 一方、「朝鮮人の犠牲者数は、在日本関東地方罹災朝鮮同胞慰問班が官憲の協力を得られないまま調査を進めた」。この調査結果にもとづき、上海の大韓民国臨時政府機関誌『独立新聞』が12月5日に朝鮮人犠牲者の数を6,661人と発表している。

https://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1923_kanto_daishinsai_2/pdf/22_column8.pdf

 しかし、朝鮮人虐殺のほとんどのケースでは、集団で殺されたあと、遺体は川に流されたり、そのまま地面に埋められ、氏名はもちろん、正確な人数さえ記録されなかった。実際、朝鮮総督府警務局の報告書では、朝鮮人の遺体について身元がわからないように始末したとも記されている。だから慰問班のこの数字もあくまで暫定値である。

横網町公園朝鮮人犠牲者追悼碑に記された「六千余名」の数。この碑は半世紀前の1973年に東京都議会の全会派が参加した実行委員会の賛同のもとに建立された。(報道特集


 戦後、研究を先導してきた姜徳相(カントクサン)は、「関東大震災60年に思う」と題する1983年の文章で、政府だけでなく、日本民衆の意識をも鋭く批判している。

「6,7千人の朝鮮人が殺されたことを知っている人は少なくないが、どうしてこれほど多くの生命が失われたのか、そしていつ、どこで、だれに殺されたのか、なおわからないままの状態であるのを知っている人は、あまりいない。一口に6、7千人というが、この事件で一人の殺人犯もまともな罪の報いを受けたものはない不思議な事件なのである。相手が朝鮮人である限り殺人も許容される、思えば恐ろしい時代もあったものである。

 では、どうしてそんなことになったのか。一つは、日帝権力が異常な執念で事件を隠そうとし、“官製真相”をばらまいてすりかえたこと、そして言論統制をきびしくし、違反者は処罰したことなど、瞞着と脅迫の結果といえよう。

 しかし反面、真相究明をおこたった日本民衆の意識にも理由があったようである。民衆の残した膨大な記録をみても、虐殺事件は震災一般論のなかにおしこめられて、焦点にすえているものは見あたらない。震災下、最大の衝撃を受けたのは地震でも火事でもなく、『朝鮮人狩り』であったはずであるが、それをそのまま素直に記録したものはないのである。

 それは、何人かの朝鮮人が生命を賭して、手のとどくかぎり調査し、真相の一端をつかみだしたことや、自己の体験を口から口へと語り伝えたこととはちがっていた。約6500名と推定される犠牲者数も、朝鮮人の調査によるものである。事件直後、もし日本の民衆が権力の妨害をはねのけて真相調査をしていたら、これほどまでに隠されることはなかったと思う。

 昨年、荒川河川敷の遺骨を発掘する会に寄せられた古老たちの証言を読んで、事実のばらつきにおどろくと共に、どうして事件の真相を書き残した人がいないのか不思議に思い、事件に密着した史料がなにより可信性を高めること、逆に時間の経過は真相をぼかすものであるという史料批判のイロハを思い浮かべた。

 事実を知ろうとしなかった民衆、権力のとりこになり、植民地支配の腐臭に気がつかない民衆、あの頃の思想状況が見えてきてならない。きついことを言うようだが、ある時間を経過しても、民衆の手で事実をさぐりだす動きもなかったように思う。一部の左翼系雑誌や政党の機関誌がテロ行為を声高に告発したことはあるが、個々の事実を発掘、追悼する姿勢はみえなかった、それは単に権力の妨害、それへの保身というだけの問題ではなかったようである。

 大日本帝国の束縛がなくなった敗戦後、朝鮮人虐殺事件欠落の思想はより鮮明になる。本質露呈というべきだろう。日本の民衆が、戦後まっさきに語り、真相究明にいさみたったのは大杉事件であり、社会主義者虐殺事件である。戦争直後の新聞、雑誌には、かつての同志たちの思い出から、史実はこれだ式の論議が横行しているのを見ることができるが、朝鮮人問題は焦点にすえられておらず、依然として無関心のままである。さきにのべた、事実を知ろうとしなかった民衆がそのままクローズ・アップされているのである。

 自由を保証された時にこのていたらくである。人殺したちは大日本帝国の庇護を失ったあとでも大手をふってのし歩いていたのである」(読みやすいよう段落分けをした)

きびしい指摘だが、私たち日本人の人権意識の陥穽を突いていると認めざるを得ない。

注)姜氏の文中にある「荒川河川敷の遺骨を発掘する会」について。殺害された朝鮮人の遺体を河川敷を掘り返して見つけようとしたが、目撃者の記憶の風化もあり、結局埋葬地は特定できなかった。

(つづく)