関東大震災の虐殺100年によせて8

 岸田改造内閣は突っ込みどころ満載。

認証式を終えた副大臣ら。女性はいない(朝日新聞

 5人の女性閣僚を起用しても、副大臣26人と政務官28人の計54人は全て男性議員で女性議員はゼロ。2001年に副大臣政務官が導入されてから「女性ゼロ」は初めてだという。「やってる感」の化粧がすぐにはげるのは岸田内閣の特徴の一つか。

 ところで近年、政府の日本語はおかしい。政策の薄っぺらさを自己愛的な言葉でとりつくろっているのか。

 誰が答弁しても「丁寧な説明」が枕ことばのように発せられ、実際の説明はなし。自分の行為に「丁寧」って言うか。小説家飲んで三浦しをんは「骨太の方針」という言葉にイラっとするという。「『骨太』って自分で言うの。言語感覚がおかしいです」。言葉を大事にする作家が我慢できなくなるのも当然だ。「異次元の少子化対策」も自分をほめあげている。「異次元」ではなく「現実にしっかりした政治をやってほしい。」(三浦氏)

 大賛成!

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 関東大震災の時の朝鮮人虐殺は、権力とメディアの関係を大きく変えることにもなった。

 朝鮮人来襲の流言が事実ではないと気づいた内務省は、9月3日、新聞各社に「朝鮮人に関する記事は」「一切掲載せざるよう」にせよ、さもないと発売禁止にするぞと警告書を発していた。

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 その日、戒厳令東京府、神奈川県全域に拡大され、戒厳司令部は「時勢に妨害ありと認むる新聞、雑誌、広告を停止」するという発禁命令も出した

 しかし、これらの警告、命令は守られず、新聞はそうした記事を載せ続けたため、都新聞が禁止処分に、報知新聞、東京日日新聞などいくつもの新聞が差し押さえ処分を受ける。

 政府は出版物取り締まり強化をはかり、9月7日には治安維持罰則勅令を公布。そこには、社会不安をうながす記事を掲載した新聞、雑誌等の発行人に対して、十年以下の懲役、禁錮、又は三千円以下の罰金に処すことが明記されていた。さらに16日には、新聞、雑誌等の原稿をもれなく検閲する命令が内務省から発せられた。

 吉村昭はこう総括する。

 《地震発生後新聞報道は、たしかに重大な過失をおかした。その朝鮮人来襲に関する記事は、庶民を恐怖におとしいれ、多くの虐殺事件の発生もうながした。その結果、記事原稿の検閲も受けねばならなくなったのだ。

 しかし、それは同時に新聞の最大の存在意義である報道の自由を失うことにもつながった。記事原稿は、治安維持を乱す恐れのあるものを発表禁止にするという条項によって、内務省の手で徹底的な発禁と削除を受けた

 政府機関は、一つの有力な武器をにぎったも同然であった。政府の好ましくないと思われる事実を、記事検閲によって隠蔽することも可能になったのだ。》(前掲書P232-233)

 大震災が、言論の自由報道の自由にとっての一つの転機にもなったというのだ。

 当時、内務省が世人に知られることをおそれる事件があった。亀戸警察署内で社会主義者ら13名が殺害された「亀戸事件」である。

亀戸事件犠牲者の碑(筆者撮影)

墓碑に「権力の蛮行に斃れた」の文字が(筆者撮影)

碑がある亀戸の赤門浄心寺(筆者撮影)

 大地震発生後、内務省社会主義者への監視を強化し、検束する行動にも出た。

 警察庁は、9月5日、官房主事と警務部長名で、社会主義者の所在を確実につかみ、その動きを監視せよとの通牒を出した。さらに11日には官房主事から、社会主義者に対する監視を厳にし、公安を害する恐れがあると判断した者に対しては、容赦なく検束せよと命令を発している。なお、このときの警察庁官房主事」は正力松太郎。のちの読売新聞社主、日本テレビ社長である

 また関東戒厳司令部でも、社会主義者を十分に監視し警戒するよう命令を出した。

 横浜では大地震の起きた9月1日の午後、社会主義者及び鮮人の放火多し」との流言が流れた。

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 ただ、実際には社会主義者の勢力が弱く、庶民の関心が薄かったため、「社会主義者」を理由に自警団に襲われ負傷したのは2名にとどまった。
 「亀戸事件」は、民衆による暴行ではなく、警察の要望で出動した騎兵第十三連隊の将兵が引き起こした権力犯罪である。

 殺されたのは、南葛飾労働組合員の平沢計七、河合義虎ら9名と砂町本町の自警団員4名の計13名。「震災警備ノ為兵器ヲ使用セル事件調査表」によれば、「処置」は「刺殺」で、「死体は震災死亡者数百名屍体と共に火葬したり」とある。遺族に知らせもせずに火葬処理してしまったのだ。

「兵器ヲ使用セル事件調査表」に記載された亀戸事件。「刺殺」とある。


 大地震の直後から、警察は多くの社会活動家を検束した。その中には、戦後の政界で名を成す浅沼稲次郎麻生久らもいた。民衆に暴行されないよう「保護」するという名目だったが、実態は強制逮捕だった。警察に連行された彼らは裸にされ、激しい暴行を受けたという。亀戸事件もこうした警察と軍の姿勢から必然的に引き起こされた。

 内務省は事件が公になることをおそれ、厳重な箝口令をしいた。隠しきれなくなって事件の内容が発表されたのは、1カ月以上たった10月10日だった。しかも新聞の記事原稿は検閲され一部削除された。メディア統制が効いてきたのだった。

 そして、さらに残虐な権力犯罪、「甘粕事件」(=大杉事件)が起きる。それは、渋谷憲兵分隊長兼麹町憲兵分隊長、甘粕(あまかす)正彦憲兵大尉とその部下による社会主義者大杉栄、妻伊藤野枝、甥橘宗一の虐殺事件だった。
(つづく)