「日出処の天子」をめぐって3

 一昨日、親戚がコロナ感染で亡くなった。

 はじめに若夫婦が感染し、同居していた70歳近い父親に家庭内感染した。父親は、がんの治療中で、ワクチンは接種していなかった。救急車を呼んだが、複数の病院で搬送を断られた。何とかある病院に入院できたが、がん闘病で体力が衰えていたこともあり、助からなかった。

 医療体制がパンクして、感染者が自宅待機を強いられた結果の出来事である。

 そんななか、きのうパラリンピックが開会した。
 もう国論は二分されてなどいない。みんなは、パラリンピックに反対しているのではない、病気になっても治療を受けられない国家的危機のときにやらないでくれと言っているのだ。
・・・・・・・・

 これまで私は、第二回遣隋使にかんする『隋書』の記述をこう理解していた。
 「日出ずる処の天子より、日没する処の天子に書を致します」は、中華思想ではこの世に一人のはずの「天子」を複数いるという常識ではありえない文言で、聖徳太子はそこまで強く倭国の自主性を誇示したかったのだろう。そして、「菩薩天子」の誉め言葉と使者の小野妹子のたくみな弁舌が、激怒する煬帝をなんとかなだめて留学僧を受け入れさせたのだろう、と。

f:id:takase22:20210825102822j:plain

新進気鋭の古代史学者、河上麻由子氏。(中央公論HPより)

 河上麻由子氏は、新しい画期的な解釈をしている。

《通説では、「天子」は中華思想上の意味で使用されたと考えられてきた。(略)倭国の書状にあった「天子」は、使者の発言にあった「菩薩天子」を踏まえて考える必要がある。そこで取り上げたいのが、人界の王を意味する、仏教用語としての「天子」である。
 仏法による国家の加護を説く『金光明経(こんこうみょうきょう)』には、「天子」の意味が次のように定義される。

 集業(しゅうごう)によるがゆえに、人中に生まれ、王として国土を領有する、ゆえに人王と称するのである。母の胎内にあって、諸天が守護し、しかるのちに胎中に入る、人中にあって、生まれて人王となるとも、天が守護するがゆえに、また天子と称するのである。三十三天は、おのおの自らの徳をこの王に分け与える、ゆえに天子と称するのである。〔天子は〕神通力を得て、ゆえに自在となり、悪法から遠く離れ、それを遮(さえぎ)って起こさず、善法〔仏法のこと〕に安住し、それをますます広め、よく衆生をして、多く天上に生まれ変わらせる。(曇無讖訳『金光明経』)

中華思想では、天子は複数存在しえない。よって書状の天子を中華思想で理解することは、原則的に不可能である。倭王と隋皇帝の二人を天子と呼んでいるからである。皇帝を「菩薩天子」とたたえる使者の発言を踏まえるならば、倭国の書状にある「天子」は、諸天に守護され、三十三天から徳を分与された国王と解するべきである。》(P89)

 この新解釈はすばらしい。これだけでも本書は高く評価されていい。

 『金光明経』は古代日本では「護国の経典」として非常に重んじられた。この経典を護持すれば四天王他の天・神々が国を護ると説かれており、聖徳太子創建と伝えられる四天王寺、そして聖武天皇が創建した東大寺(正式名称は「金光明四天王護国之寺(きんこうみょうしてんのうごこくのてら)」は、この信仰にもとづいて建てられている。

 天武天皇も『金光明経』をやはり護国の経典である『仁王(にんのう)般若経』とならんで重視し、宮中や諸寺、諸国で講説させている。

 私はこの二つの経典を一昨年から学び始めたが、王が慈悲の心で衆生を救うことで国が護られるという「護国」のコンセプトが思想として深く、おもしろい。
 当時の天皇たちの国家理想を重ね合わせて読むと、聖徳太子が仏教を国教化した先見性はじめ、目からウロコの発見が相次ぎ、私の古代日本のイメージが一変した。これについてはまた機会があれば紹介したい。

 「護国の経典」である『金光明経』は、日本だけでなく、隋、そして周辺諸国で広く学ばれ、国家リーダーたちにとっては必須の教養課目になっていたと思われる。煬帝自身、菩薩戒を受けており、菩薩としての自覚をもっていたはずだ。
 だから、聖徳太子から、お互い「菩薩」である国家リーダーですよね、「菩薩天子」として付き合いましょう、と言われれば、煬帝もこの申し出を断ることはできなかっただろう。

 聖徳太子は挑発的な文言で国の自主性にこだわったわけではなかった。「外交オンチ」ではなく、仏教の深い理解のもと、隋の状況を見据えて、ぎりぎりの国家間交渉を行ったと理解できる。

 『古代日中関係史』には、この他にも日本の古代史にかかわる、私にとっての発見がいくつもあり、大いに学ばされた。

 ただし、河上氏の歴史叙述の方法には同意できないものがある。
 「日中関係を概観し、遣隋使派遣による日本の対等外交指向などの通説を乗り越えようとする試み」(本書概要)「『アジアに冠たる大国=日本としての歴史はこうあらねばならない』、という時代はもう終わったということが伝われば嬉しいです」(この本でもっとも伝えたいことは?に答えて)という意図で書かれた本書は、倭国の自主性の否定が行き過ぎて、日本の国家づくりが、中国の鼻息をつねにうかがいつつ進められたかのように描かれている。

 国家思想史、政治思想史の観点から古代日本を見るときには特に、倭国内での国家リーダーたちの営為はまったく別の様相を見せるだろう。これについては、いずれ論じたいと思う。