「日出処の天子」をめぐって

 河上麻由子『古代日中関係史 倭の五王から遣唐使以降まで』中公新書)を読んだ。

f:id:takase22:20210823153313j:plain

2019年3月発行

 河上氏は阪大准教授でまだ41歳。近年注目されている、「新進気鋭の」という形容詞がつく歴史学者だ。先日、考古学とその関連分野の優れた研究者に贈られる第33回「浜田青陵賞」が河上氏に贈られたのを知り、この本を手に取ったのだった。

 私は、日本という「国のかたち」を知るには古代、とくに飛鳥時代が重要だと考えている。聖徳太子厩戸皇子、うまやどのみこ)の存在はとりわけ大きく、後々まで日本人の精神を形成する基礎を作っている。そういう問題意識で、古代史を少しづつ勉強している。 

 

f:id:takase22:20210824004248j:plain

河上麻由子氏。こういうプロフィール写真を公開するとは、けっこうお茶目な人らしい

 本書は「古代歴史文化賞」優秀作品賞を受賞している。 

 出版社による本書の内容紹介はー
「5世紀の倭の五王の時代から菅原道真による建議で遣唐使派遣計画が白紙にされた9世紀末までの日中交渉の歴史を、著者の専門とする仏教を切り口に紐解く。東アジアのみならず、アジア全体を視野に入れ、日中関係を概観し、遣隋使派遣による日本の対等外交指向などの通説を乗り越えようとする試みが本書の特徴である

 本書の「はじめに」でも「日本古代の対中国交渉をアジア史の枠組みから見直すことで、どのようなことがみえてくるのか。通説を乗り越える試みを始めていこう」と挑戦的に宣言している。具体的には―

 607年に聖徳太子が派遣したとされる遣隋使が、隋の煬帝(ようだい)に送った書状の書き出し、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」を根拠に、日本は古代のある時期から中国と対等の関係を築き、それ以降は中国を単純に大国とみなすことはなかったという説がある。

 これは近代になって教科書にも採用され、太平洋戦争中には、《聖徳太子を称賛する文言も付け加えられていった。「たいそう勢が強く、まわりの国々を見くだして、いばって」(初等科国史,上1943年)いた隋に対し、対等関係を主張した聖徳太子の姿勢が、列強との戦争に突き進んだ政府が国民に要求する姿勢と合致したからである》

 敗戦後は、聖徳太子への称賛は突如トーンダウンし、現在では高校の歴史教科書からは遣隋使が中国との対等を主張したという説は姿を消した。ところが、義務教育の教科書や一般向けの書物には、いまだに遣隋使から対等な立場での日中交渉が開始されたとの表現が残るものがある、と河上氏はいう。それを覆したいというのだ。

 リベラル派の歴史研究者が、軍国主義歴史観の残滓を徹底的に取り除こうというイデオロギー闘争の側面もあると見るのはうがちすぎか。

 河上麻由子氏のインタビューでは

―今回のご本で、最も読者に伝えたかったことは何ですか。

河上:「アジアに冠たる大国=日本としての歴史はこうあらねばならない」、という時代はもう終わったということが伝われば嬉しいです。

 と答えている。今の日本の情況を反映しているともいえそうだ。

 実は私も、聖徳太子は隋と対等な立場での日中交渉をする意図を持っていたと理解していたので、とても興味深く読んだ。

takase.hatenablog.jp

takase.hatenablog.jp

 

・・・・・・・・
 倭国は600年に随に初めて使者を出している。

 開皇20年〔600年〕、倭王の姓阿毎、字(あざな)は多利思比孤(たりしひこ)、阿輩雞彌(おおきみ)と号するものが使者を派遣して朝廷にやってきた。皇帝は所司に命じてその風俗を尋ねさせた。使者がいうことには、「倭王は天を以て兄とし、日を以て弟とし、夜明け前に出でて政務をとり、〔その間は〕跏趺(かふ)して坐し、日が昇ると政務を停め、『わが弟に委ねよう』と言っております」と。それを聞いた高祖〔文帝〕は、「たいへん義理〔道理〕のないことである」と言った。そこで訓戒して倭王の行為を改めさせた。(『隋書』東夷伝倭国条)

 当時倭国は、第33代推古天皇(在位592~628年)のもと、聖徳太子が摂政となり、蘇我馬子がそれを補佐するという体制だった。

 聖徳太子は毀誉褒貶がはなはだしい。戦前は聖者としてまつりあげられた一方、近年はそもそも聖徳太子などいなかった、聖徳太子は馬子だったなどとその存在自体を疑問視する説まである。

遣唐使派遣の主体は、『隋書』が倭王の姓名をアメタリシヒコとすることから、男性であったことがわかる。摂政である聖徳太子が遣使を主導したものであろう》(P74)

 妥当な解釈だと思う。

 『隋書』の記述内容はどう解釈できるのか。
《天は倭王の兄、日は弟であって、倭王は、日の出後は弟たる日に統治を任せているというのである。(略)倭王は、夜に政務を執り、日が昇ると停止するという。第一回遣隋使からおよそ半世紀後の倭国では政務が日の出後に始まっていることも考慮すると、通訳による誤訳の可能性もあろう。ともあれ隋の文帝は「道理に合わない」と評し、倭王に訓戒を伝えさせた。(略)その政務のあり方を問題にしたのである。》

 日が昇ると政務をやめるというのは理解しがたい。

 479年の「倭の五王」の「武」による遣使から中国への使者が途絶えていたことを考えると、河上氏の《100年以上の時を経て中国を訪れた倭国の使者は、通訳の言語能力に問題があったのかもしれない》との解釈にうなずきたくなる。

《「跏趺」とは結跏趺坐(けっかふざ)の略で、両足の裏を見せるようにして据わる、仏教で瞑想するときの座り方である。「跏趺」が誤訳でないならば、倭王は瞑想しながら政務を執っていたことになる》(P70-71)

 ただし、倭王聖徳太子とすれば、熱心に坐禅を行っていたことがゆがんで伝わった可能性があるのではないかと素人ながら思う。

 『上宮聖徳法王帝説』によれば、太子は「五姓各別」(さとりに到達する能力について5種のいろいろな程度の人がいるという考え方)という学説も学んでいたという。この説は「楞伽経(りょうがきょう)」や「解深密教(げじんみっきょう)」といった唯識の経典に特有の学説だから太子は唯識を学んでいた可能性がある。(岡野守也聖徳太子「十七条憲法」を読む』P85)

 「唯識派」は別名「瑜伽行(ゆがぎょう)派」ともいい、瑜伽(ゆが)とはヨガ、つまり瞑想で、坐禅を非常に重視する。太子は三経義疏(さんぎょうぎしょ)という注釈書を著すほど深く仏教を修行しており、法隆寺の夢殿で瞑想していたと伝えられる。

《訓戒を受けてしまったとはいえ、倭国はその後も使者を派遣し、隋も倭国の使者を受け入れている。初回となる600年の遣隋使によって倭国は隋との交渉を開始できたのであり、その点ではこの遣隋使は成功したと評価してよい》(P71)

 この後、603年に冠位十二階、604年には十七条憲法が制定されている。

 十七条憲法について河上氏は《十七条憲法は、役人としての心構えを説いたのみで、政務のあり方を具体的に定めたものではない。制度としてはまだまだ原始的な状態であるが・・》と非常に低い評価をしている。

 これには同意できないが、十七条憲法の評価については、ここでは突っ込まない。

 第一回遣隋使から7年たった607年、小野妹子(おののいもこ)を使者に2回目の遣隋使が派遣される。
 ここで有名な「日出処(ひいづるところ)の天子」が記された文書が隋皇帝、煬帝(ようだい)に送られるのである。

(つづく)