「日出処の天子」をめぐって2

 先週土曜の夜、東京ビエンナーレのプロジェクト「玉川上水46億年を歩く」で、活動の記録映画の上映会があった。

tb2020.jp

 場所は「大手町の森」。東京駅に近い高層ビルの立ち並ぶ谷間に出現した3,600m²の森である。

www.asahi.com

 まるで自然林の中にいるような雰囲気のなか、映画上映とプロジェクト支援者らのトークを楽しんだ。

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大手町の森でスクリーンをはって映画上映会

 私は冒頭、私たちがなぜいまここにいるのかを138億年の宇宙史からお話しした。これについては別に書こう。

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 どの国も公認の歴史叙述は自国中心主義的になる。専制政治の下では排外主義に歪められがちになったり、時の政治環境に左右される。

 日本では遣隋使、聖徳太子の描かれ方の変遷が興味深い。

明治初期の歴史教科書では、聖徳太子蘇我氏と共謀したとして、基本的に低く評価され、記述も少なかった。ところが1890年代前半、皇室に対する忠義の観念が小学校教育に持ち込まれると、聖徳太子についての評価は一転する聖徳太子は、推古天皇の命を受けて天皇権力強化に活躍した人物として描かれるようになる。(略)
 遣隋使についての記述が大幅に増加するのが、1920年発行の第三期国定教科書『尋常小学国史』からである。》

 太子は又(また)使(つかい)を支那につかわして、交際をはじめたまえり。其(そ)の頃、支那は国の勢(いきおい)強く、学問なども進みいたりしかば、常にみずから高ぶりて、他の国々を皆属国の如くにとりあつかえり。されど太子は少しも其の勢に恐れたまうことなく、彼の国につかわしたまいし国書にも、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子にいたす、恙(つつが)なきか。」とかかせたまえり。支那の国王これを見ていかりたれども、程なく使を我が国につかわしたり。よりて太子はさらに留学生をも彼の国に送りたまい、其の後引きつづき両国の間にゆききありたれば、これまで朝鮮を経て我が国に渡り来りし学問などは、ただちに支那よりつたわることとなれり。(『日本教科書体系』18)

 ここで国定教科書としては初めて「日出処」で始まる文書が掲載されたという。

 国定教科書編纂担当者だった藤原継平は「国史教育の尤(もっと)も重要とする点は、国体観念を強烈に国民の頭に打ち込む」ことだとしている。

 1910年、韓国を併合し、アメリカなどでの日本人排斥に抗議しつつ日英同盟を口実に第一次世界大戦に参入した日本。名実ともに西欧列強と肩を並べようとしていた日本にとって、「わが国の外交」の始まりを明らかにすることは重要だった。

《周囲の国々を植民地化する大国隋の国勢にひるむことなく対等な関係を勝ち取った日本という構図が、当時の日本を取り巻く国際状況と合致》したのである。
 
 国体観念は時代が下がるほどいっそう強調されるようになり、《1940年度より使用開始となる第五期国定教科書では、「日出処天子」で始まる書状によって、聖徳太子が「国威をお示しになった」と表現されるようになる。》(本書P238~242)

 さて、問題の『隋書』東夷伝倭国条の第二回遣隋使についての文章である。

大業(たいぎょう)三年、倭国王の多利思比孤が、使者を派遣して朝貢してきた。使者がいうには、「〔倭王は〕海西には菩薩天子〔隋皇帝のこと]がいて、重ねて仏法を興隆させていると聞き及んでおります。そこで、〔使者を〕派遣して〔菩薩天子に〕見(まみ)えて拝礼させ、さらには沙門〔出家して修行に専念する者〕数十人を遣わして仏教を学ばせたい〔と申しております〕」。その国の書状には、「日出ずる処の天子より、日没する処の天子に書を致します。つつがなくお過ごしでしょうか」云々とあった。帝〔煬帝〕はこの書状をみて不快となり、 鴻臚卿(こうろけい)〔現在の外務省の長官〕にいうことには「蛮夷(ばんい)の書状に無礼なものがあれば、今後は奏上せずともよい」ということであった。

 この短い文章が多くの論争を生んできたが、これに分け入るとえらいことになるので、私が特記したいテーマだけ書く。

 まず、遣隋使を送った「倭国王の多利思比孤」は第一回の遣隋使の時と同様、聖徳太子厩戸皇子、うまやどのみこ)と考えられる。

 つぎに、「日出処」、「日没処」の解釈について。
《かつては、「日出処」は朝日の昇る国=日の出の勢いの国、「日没処」は夕日の沈む国=斜陽の国と理解されてきた。太平洋戦争前から戦後も多く支持されたものである。だが近年、東野治之によって、「日出処」「日没処」の出典が『大智度論(だいちどろん)』という経論(きょうろん、経を注釈したもの)であり、単に東西を意味する表現にすぎないことが証明された》(P77)

 調べてみると、東野氏が出典が仏教の論書『大智度論』だったことを証明したのは1992年の論文だったようだ。出典箇所が示されていないが、吉田孝『日本の誕生』(岩波新書1997年)によれば、「日出づる処は是れ東方、日没する処は是れ西方」と日によって方位を示す文章があるという。

 つまり仏教的世界観では、倭はその東端にあった。
 「遣隋使の国書の『日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」(隋書)と、小野妹子がふたたび隋に渡ったときの国書の『東の天皇、敬(つつし)みて西の皇帝に日(もう)す』(日本書紀)とを参照すると『日出づる処』と『東』が対応している」(『日本の誕生』P121)

 『大智度論』は日本でも早くから読まれていた論書で、煬帝への書を書いたのが、仏教関連には突出して造詣のあった聖徳太子であれば納得できる。

 常識的にみて、隋との正式の国家間交流で「日没処=斜陽の国」のニュアンスを込めて書を書くわけがない。仏教書からの知見で書いたとするのが、この後の「菩薩天子」とも適合的だ。

 次にもっとも議論のある「天子」について。

 通説では、「天子」は中華思想上の意味で使用されたと考えられてきた。しかし、中華思想では「天子」はたった一人しか認められないはずだ。だから、この書を送った聖徳太子は「外交オンチ」だとの評価もあった。

 これまで私は、聖徳太子がこの書で、隋に対して「自主的」な態度を示そうとしたと思っていた。しかし、やはり「天子」から「天子」へなどと表現すれば、隋皇帝、煬帝(ようだい)が激怒するのは必至なのに、なぜあえてそんな大それたことをしたのかは疑問だった。また、「天子」の語を使った書を受け取ったうえでも、煬帝倭国の留学僧を受け入れたのはなぜなのか。

 河上氏の独自の新しい解釈が私の疑問を解消してくれた。
(つづく)