横田滋さんの逝去によせて3-続「めぐみさん目撃証言」のスクープ

 「目に入れても痛くない」ほど可愛い、まだ中学1年、13歳の娘、めぐみさんが突然行方不明になった。
 その失踪後の経緯について、滋さんが1999年初頭に書いた文章がある。

 滋さんらしい簡潔で抑制された表現ながら、周りの動きとともに滋さんと家族の心境もよくわかるので紹介したい。

 《めぐみは、昭和52年11月15日、部活のバドミントンの練習を終え下校途中、自宅近くで行方不明になりました。

 いつもの時刻を過ぎても帰宅しない娘を案じ、妻は部活の友人に電話で問い合わせたり、先生方と一緒に近くの空地や海岸などを探しましたが見つかりません。これまで学校帰りに寄り道をしたことは一度もなかったので、私は、事件に巻き込まれたと直感し、その日のうちに警察に捜索願を出しました。

 警察はすぐに駆けつけ、警察犬2頭で友人と別れたところから臭いをたどりましたが途中で消えており、また、周辺から学生鞄、ラケットが入った赤いスポーツバッグなどの所持品も見つかりません。翌日早朝からは機動隊も出動して海岸、防風林の中など広範囲を徹底的に捜し、後には、船、ヘリコプター、ダイバーによる捜索も行われたのですが、何の手掛りも発見できませんでした。自宅には、身代金目的の誘拐にそなえて電話の逆探知機を設置したうえ、捜査員が3交替で泊り込み、周辺には覆面パトカーが張り込みました。

 めぐみが帰らなかった日から、いつ帰ってもよいように、しばらくは玄関の鍵は掛けず、門灯も新潟にいる間ずっと一晩中燈しておりました。帰ってきたときに真っ暗だと自分を待っていないと思い、入りにくいだろうと考えたからです。テレビの家出人捜しの番組にも4回出演し、「元気なら帰っておいで。見かけた方は情報の提供を」と呼びかけましたが、何の反応もありませんでした。新聞や雑誌でめぐみによく似た写真を見つけると、事情を話して身元を確かめたり、拡大写真を見せていただいたりしましたが、いずれも他人の空似でした。戸籍・住民票を移しておらず、中学生や高校生では雇うことろもないだろうから、幸せに暮らしているはずはないと思う一方、記憶喪失になり親切な方に保護されているのではと淡い期待を抱き、こうしたことをつづけました。

 めぐみがいなくなってから、妻は「私の育てかたが悪かったので家を飛び出したのだろうか」と何度も言いました。私は「そんなことはない、事件に巻き込まれたのだろう」とその都度答えましたが、事件に巻き込まれたのなら生命が危ないわけで、どちらの答えにしても良いものではありません。夫婦の会話の中に、めぐみの話題が出てくることは、徐々に少なくなっていきました。私たちは、家出であって欲しいと願っていました。帰ってから住みにくいのなら、私たちの実家に預けたり、アメリカに住む知人のところに住まわせることも考えたりしました。

 めぐみの失踪後、子どもたちが以前から欲しがっていた、シェトランド・シープドッグの仔犬を飼いました。心配事ばかりしている2人の弟の気を紛らすためです。めぐみも動物が大好きでした。リリーと名付けた犬は、めぐみの帰国を待てず、平成7年に癌で死にました。15歳でした。めぐみと一緒に暮らしたのは13年。リリーと過ごした時間のほうが長かったことになります。》

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1998年11月15日、めぐみさんが拉致された日にかつての自宅前で。建物は取り壊され、格子戸の門だけが残っていた。玄関の鍵はかけず、門灯は朝までつけっぱなしにしていた。

 突如「神隠し」にあったように消え、生死もわからずに時間が過ぎる。あらゆる可能性を想像し、ああでもない、こうでもないと、どうどう巡りをしながら、そのたびに打ちのめされる。
 このつらさを滋さんたち拉致被害者の家族たちは、へびの生殺しのようだという。死んだと分かれば、悲しみのあとに諦めもつくが、滋さんたちは、もっていき場のない苦しみが延々と続くのである。

 失踪から20年目にもたらされた、「北朝鮮に拉致された」との情報。

 滋さんは《「生きていて良かった」と暗闇で一条の明かりをみたような気持でした。しかし救出する手立てが見つからず、心労は変わりません》と明暗こもごもの心境だったという。苦しみが終わることはなかったのである。

(以上の引用文章は、拙著『娘をかえせ息子をかえせ―北朝鮮拉致事件の真相』旬報社より)
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 先日からの続きで、「めぐみさん目撃証言」取材の顛末。

 横田滋さんは、1997年1月21日、永田町の参議院会館で石高リポートを読み、めぐみさんが北朝鮮に拉致されたとの確信をもった。その後、横田さんの自宅を訪れた石高氏本人から直接に説明を受けている。

 石高氏は韓国に亡命した北朝鮮工作員の証言を、韓国情報部の幹部から伝え聞いている。画期的な証言ではあるが、これはあくまで「又聞き」の情報である。

 これに対して、2月4日の元北朝鮮工作員安明進氏のインタビューは、本人が語った直接の目撃証言である。このインパクトはきわめて大きかった。

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1997年当時の安明進

 証言の重要な部分としては―

 「朝鮮労働党工作員の養成所である『金正日政治軍事大学』の式典で(めぐみさんらしい日本女性を)何度か見た」

 「私が在学中の88年から91年にかけて」の時期だった。

 (その女性は)「25歳から27歳くらいに見えた。彼女はとても可愛かったので『もう結婚しているのかな』などと仲間で噂しあっていた」

 (身長は)「160センチくらい」

 「金正日政治軍事大学では、重要な記念日に式典があり、大会議場に学生や職員が集められる。日本人の教官が10人くらいいた。うち女性は3人だった
 88年10月10日の朝鮮労働党創立記念日だったと思うが、(私が)真ん中の列の前方に着席して、式が始まるのを待っていると、私たちを指導していた教官が、彼女は自分が日本の『ニイガタ』から連れてきたのだと言った。私たちが首をひねって後ろを見ると、ひとりの女性が入ってきて右側の列のまんなかくらいに座った。
 日本人はいつも最後に会議場に来るのだが、彼女はその日一番遅く入ってきた」

 「はっきり『ニイガタ』と言った

 (連れてきたのは)「70年代だということだった」

 (その指導教官は)「大学の11期生だ。私は25期だから、大先輩にあたる。卒業後、彼は清津(チョンジン)連絡所の工作員をしており、そのあと大学に戻っていた。
 清津は日本に対する工作拠点だ。
 彼自身が新潟に「浸透」した際に、その女性を連れてきたと言った

 「拉致してみるととても幼く、激しく泣くのを見て、あとで後悔したと言っていた」

 (目撃した当時、その女性は)「他の日本人と同じく、工作員の『日本人化』の教育をしていたはずだ」

 (彼女は)「もう一人の日本人女性と仲がよく、よく手をつないで歩いたり、笑い合ったりしているのを見た。他の日本人たちと共同生活をしている様子だった」

 (北朝鮮は食糧事情が悪いが)「工作員の養成部門は、国家から特別の待遇を受けているから、(彼女たちの)生活自体は恵まれているはずだ」

 

 安明進氏の証言からは、北朝鮮工作員が日本人を拉致し、拉致された日本人が工作員の「日本人化」の教育をさせられているという構図が見えてくる。

 「日本人化」で思い出すのは、1987年の大韓航空機爆破事件で爆弾を仕掛けた北朝鮮工作員金賢姫(キムヒョンヒ)が「蜂谷真由美」名の偽造旅券を使い、日本人女性を装っていたことだ。
 金賢姫工作員が日本人として振舞うことができるよう、日本の言葉から化粧の仕方、流行歌まで教育することを命じられたのが、拉致被害者田口八重子さんだった。 

takase.hatenablog.jp

 拉致被害者は、恐るべき人権侵害の犠牲になったうえに、テロを含む秘密工作に加担することを強いられるという二重三重の悲惨な境遇に置かれるのだ。拉致とはこれほど残酷な犯罪なのである。

 安明進氏が語る工作員養成所の年に数回の「式典」には、実は「よど号」犯の何人かも参加していた。安氏らが「日本から来た革命家の先生」と呼んだ「よど号」犯たちは、横田めぐみさんたち拉致被害者と式典に同席していたことになる。安氏によれば、二つのグループは離れた席に座っていて交流があるようには見えなかったという。
 
 さて、安明進氏は「大学」卒業後、工作員として、軍事境界線を越えて韓国に「浸透」する作戦に従事したさい、韓国に亡命している。

 では、石高リポートの情報の出元になった、亡命した「北朝鮮工作員」と安明進氏は同一人物なのだろうか。
(つづく)