横田滋さんの逝去によせて2-「めぐみさん目撃証言」のスクープ

 横田滋さんとのさまざまな思い出がよみがえってくる。

 10年前、酔いつぶれた滋さんを、札幌から川崎の自宅まで「お届け」したことがあった。
 2010年9月、札幌でひらかれた「拉致問題を考える道民集会」で、滋さんと私が講演した。高橋はるみ知事や自治体幹部のほか、マルクス主義の立場から『拉致・国家・人権―北朝鮮独裁体制を国際法廷の場へ』 (大月書店)を書いた中野徹三氏など、幅広い市民が参加して盛況だった。

 懇親会には滋さんの出身校、札幌南高時代の同期生が何人も顔を見せた。高校の一年先輩の作家、渡辺淳一が、自殺した同級生を書いた小説『阿寒に果つ』の話で盛り上がったのを覚えている。拉致の話は一つも出なかった。
 故郷で、なつかしい仲間と思い出を語ってよほどうれしかったのだろう、お酒がすすんだ。
 お開きになった後、へべれけになった滋さんと一緒にタクシーで空港に向かった。空港に着くと、滋さんには酔い覚ましにロビーで待っていてもらい、私がカウンターに二人分のチェックインをしにいった。
 戻ってみると滋さんがいない。売店やトイレなども探したが見つからず、空港の職員に届け出た。すると、滋さんは医務室で介抱されているとのこと。ロビーの椅子から転げ落ちている滋さんを職員が見つけて運び込んだという。

 便を一つ遅らせることにし、しばらく休んだあと、滋さんは車イスに乗せられて機内へ。羽田に着いたら、そこでも車イスが待ち受けていた。足元のおぼつかない滋さんをタクシーに乗せ、川崎に向かった。
 雨の中、早紀江さんが、マンションの1階まで下りて傘をさして待っていた。
 「おとうさん、お酒をのんじゃだめっていったでしょ。私が付いていないとこうだから」と叱られ、滋さんがしゅんとなっていたのがおかしかった。

 いくら注意されても、お酒には手がでてしまう。そして飲みだすと止まらなくなってしまう。滋さんが長年耐えてきた、私には想像もつかない苦悩と強烈なストレス。飲まずにはいられなかったのだろう。

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めぐみさんは弟たちをとても可愛がっていたという

 拉致問題の集会で、滋さんが会場を沸かせたことがあった。
 2015年10月、川崎市平和館の「拉致被害者家族を支援するかわさき市民のつどい」でのこと。当時の拉致問題担当大臣山谷えり子氏が挨拶し、テレビ、新聞がたくさん取材に来ていた。

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 この日は横田さん夫妻と私が対談することになっていた。

 孫のウンギョンさん一家とモンゴルで面会したのが1年半前の2014年3月で、その後は拉致問題で進展がまったくない。どんな話を引き出せばよいか悩んだ末、悲しい話に聴衆がハンカチで目頭を押さえるいつものパターンはやめて、きょうは二人に楽しい話をしてもらうことにした。

 めぐみさんの思い出話になると、滋さんが身を乗り出して語り始めた。
 めぐみさんは両親からとても大事に育てられ、小さいころの服はほとんど早紀江さんが手作りしていた。めぐみさんの下に双子の男の子が生まれると、早紀江さんの手はいきおいそちらに取られ、めぐみさんと遊ぶのは滋さんの担当になった。
 日銀の社内旅行も二人で行ったし、めぐみさんが映画を見に行くのも滋さんと一緒、中学になるとめぐみさんの服は滋さんが選んで買っていたという。めぐみさんは「お父さん子」だったのだ。

 横田家は、1976年7月に新潟に移って来る前、広島に暮らしていたが、広島に宝塚が来た時、滋さんはベルバラ(ベルサイユのばら)のファンだっためぐみさんを連れて一緒に観に行った。

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めぐみさんが描いた漫画で、親友の眞保恵美子さんに贈った

 その後も滋さんはベルバラに魅せられ、2012年の40周年記念『ベルサイユのばら展』も早紀江さんを伴って観に行っている。
 めぐみさんに影響されたのか、滋さんは意外にも「ぶりっこ」系の歌手に詳しい。とくに松田聖子は、めぐみさんと年齢が近い(めぐみさんが2歳下)こともあったのか、大ファンで、CDを買いコンサートにも行っていた。

 そんな話を滋さんが嬉しそうに語っていた姿が印象に残っている。拉致問題の集会では珍しく、会場からときおり笑い声が起こった。
 横田さん夫妻が話す集会では、いつもは早紀江さんが自然に「主役」になるのだが、この日は、親バカぶりを披露した滋さんが会を盛り上げたのだった。

 滋さんから「めぐみは目のなかに入れても痛くないほど可愛い娘でした」と聞かされたことがある。大げさな表現を好まない滋さんが、「目のなかに入れても痛くない」と言ったことが忘れられない。

 思い出話はこのくらいにして、きのうの続きを。
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 韓国に亡命した元北朝鮮工作員安明進(アンミョンジン)氏に私が横田めぐみさんの情報を尋ねたのが1997年2月4日(火)。
 その時に安氏に見せたのが、前日2月3日(月)に私たちが成田空港で出発前に買った『産経新聞』と『アエラ』(朝日新聞)の記事だった。
 そして2月8日(土)のテレビ朝日ザ・スクープ」での安明進証言を放送。
 今振り返っても驚くような絶妙のタイミングだが、これにはわけがある。

 前年1996年は、私が北朝鮮に関する報道をはじめて手がけた年だった。
 3月、カンボジアベトナム国境で、1970年の日航機「よど号」ハイジャック犯の田中義三が拘束された。東南アジアに広まっていた北朝鮮の偽ドル札「スーパーK」使用の容疑だった。
 私が所属していた日本電波ニュース社は、カンボジア駐在のM特派員を中心に、タイとベトナムの特派員、本社からの応援も投入した取材態勢をとり、他のメディアを圧倒するスクープを連発した。

 カンボジアに滞在していた田中の身辺には、ガードマンのように3人の若い北朝鮮人が付き従っていた。3人の顔写真や動画を入手し取材した結果、カンボジア王室の警護隊にいる武術の達人であることが判明した。(当時は、シハヌーク王を北朝鮮人が警護していた)
 この「スーパーK」事件取材は、テレビ朝日サンデープロジェクト」の特集として3回にわたって放送された。

 5月、北朝鮮のミグ19が韓国に飛来し、パイロットが亡命。

 9月には韓国の海岸に北朝鮮の潜水艦が座礁し、乗組員が上陸して山に逃げ込むという事件が起きた。韓国軍の大規模な掃討作戦の結果は、逮捕1名、射殺13名、集団自決11名、行方不明1名という衝撃的なものだった。
 集団自決という異様な行為で、「工作員」という言葉が日本で広まることになる。

 私は山狩りのヘリが飛び交う現地を取材したほか、「工作員」とは何かをインタビューするために安明進氏に接触した。
 取材が終わって、安氏と雑談になった。私たちが「スーパーK」事件を取材したことを話すと、「それはテレビで見ました。私が知っている人が映っていたのでびっくりしました」と言う。
 テレビ朝日の番組素材を韓国のテレビ局が購入して放送していたのだった。

 その「知っている人」とは、「よど号」犯の田中義三、そして彼と行動をともにしていた「武術の達人」だった。

 安明進氏は朝鮮労働党工作員養成所である「金正日政治軍事大学」出身で、「武術の達人」は安氏の2年先輩だったという。

 田中を見たのは、労働党の記念日など、年に何回か大学で大きな集会が開かれたときで、2、3人の仲間と隅っこの方に座っていた。彼らは日本から来た「革命家の先生」として学生たちにも知られていたという。
 これはおもしろい!

 「よど号」犯と北朝鮮の工作機関との関係については、またあらためて取材しようと思った。

 年が明けて1997年の1月、私は安明進氏への取材を韓国大使館に申請した。北朝鮮からの亡命者、とくに元工作員となると、韓国の情報機関「国家安全企画部」(安企部)(当時)の事前の許可と日程調整が必要になる。
 取材許可が出て、2月4日に安明進氏のインタビューという日程が決まったのが1月下旬だった。私は1月31日に東京の韓国領事館に出向いて、ディレクター、カメラマンを含め取材クルー3人のビザを申請している。

 この経緯から、横田めぐみさんの拉致をめぐる一連の動き(国会質問、「産経新聞」と「アエラ」の記事)が2月3日に起きることを、私たちも、また安企部も予期できなかったことが分かると思う。

 「横田めぐみさんが北朝鮮にいるらしい」という情報のきっかけになったのは、月刊誌『現代コリア』の96年10月号に載った、朝日放送プロデューサーの石高健次氏のリポートだった。
 リポートでは、「94年暮れに韓国に亡命したひとりの北朝鮮工作員」がもたらした情報として以下を挙げている。

 「おそらく76年のこと」

 「13歳の少女が」「日本の海岸から北朝鮮へ拉致された」。

 「少女はバドミントンの練習を終えて、帰宅の途中だった。
 海岸からまさに脱出しようとしていた北朝鮮工作員が、この少女に目撃されたために捕まえて連れて帰ったのだという」。

 「少女は双子の妹だという」

 「18になった頃」「少女は精神に破綻をきたしてしまった」
 病院に収容されていたときに、工作員がその事実を知った。


 石高氏はこれを韓国安企部の幹部から、酒の席で聞かされた。驚いた石高氏はトイレに行って必死にその話をメモしたという。

 『現代コリア』を主宰する現代コリア研究所の所長、佐藤勝巳氏(故人)は新潟の出身で、96年12月14日、地元新潟市で講演する機会があった。

 講演後の懇親会で、石高リポートに触れたところ、参加者に新潟県警の幹部がいて、即座に「それは横田めぐみさんのことだ」と言ったという。

 数日後、新潟在住で佐藤氏の友人の小島晴則氏が、めぐみさん失踪を伝える当時の『新潟日報』の記事を入手して佐藤氏に送ってきた。状況は符合する。
 佐藤氏は1月上旬から、『現代コリア』のホームページに横田めぐみさんの拉致疑惑を掲載した。そこから情報が回りはじめた。

 北朝鮮の拉致疑惑を熱心に調べてきた先駆者に、当時、日本共産党の橋本敦参議員の秘書だった兵本(ひょうもと)達吉氏がいる。

 彼が知り合いから、石高リポートと『新潟日報』の記事のファクスを受けたのは97年1月21日のことだった。
 兵本氏はすぐ横田滋さんの勤務先だった日本銀行のOB会「旧友会」に連絡をとり、その日のうちに滋さんに電話をかけた。
 「実は、おたくのお嬢さんが、北朝鮮にいるという情報が入ったんです」。

 驚いた滋さんは川崎の自宅を出て、電話から1時間もしないうちに永田町の議員会館に飛び込んでいる。
 そこで兵本氏から手渡された石高リポートを滋さんはむさぼるように読んだ。
 兵本氏によれば、読み終わって顔を上げた滋さんの目には、うっすらと涙が浮かんでいたという。
 「これは・・・、めぐみに違いないと思います」
 めぐみさんが北朝鮮工作員に拉致されたとの情報を滋さんがはじめて知ったのは、日本共産党の国会議員の部屋だった。

    ここから「めぐみさん拉致疑惑」が展開しはじめる。
 1月23日、西村慎吾衆院議員(新進党)が政府に「質問主意書」(北朝鮮工作組織による日本人誘拐拉致に関する質問主意書)を提出。

 同日、石高氏が横田家を訪問、詳しく説明。

 25日、『アエラ』(朝日新聞社)の長谷川煕(ひろし)記者が横田夫妻を取材。
 28日、『ニューズウィーク』誌の高山秀子記者と『産経新聞』の阿部雅美記者が取材。
 29日、滋さんが西村代議士に電話。西村氏から主意書への政府の答弁が遅れているとの説明を受ける。(実際に答弁があったのは2月7日で「捜査中」の回答だった)
 30日、横田夫妻が新潟中央署に、それまでの経緯を説明に行く。

 そして1月31日、『アエラ』誌の長谷川記者が2月10日号の見本を持って、再び横田さんの自宅にやってきた。長谷川記者は、めぐみさんや横田さん夫妻を実名で報じること、雑誌は翌々日(2月2日)には出ることを告げた。

 早紀江さんは仰天し「雑誌の発売を待ってください」と叫んでいた。二人の息子に電話をして意見を聞くと二人とも実名公表には反対だった。
 滋さんはただ一人、実名を出すべきだとの考え。早紀江さんは一睡もせずに考えた末、滋さんの判断に従った。

 横田めぐみさんの拉致疑惑は、こうして何人もの人々の縁とめぐりあわせを経て、失踪20年目にしてようやく表に出て来たのである。
(つづく)