横田滋さんが亡くなったことが報じられると、多くの人がその死を「申し訳ない」という言葉とともに悼んだ。私もそうだ。
拉致被害者5人が帰国した直後の2002年10月20日、当時の皇后美智子は拉致問題をこう語っている。
「小泉総理の北朝鮮訪問により、一連の拉致事件に関し、初めて真相の一部が報道され、驚きと悲しみと共に、無念さを覚えます。何故私たち皆が、自分たち共同社会の出来事として、この人々の不在をもっと強く意識し続けることが出来なかったかとの思いを消すことができません。今回の帰国者と家族との再会の喜びを思うにつけ、今回帰ることのできなかった人々の家族の気持ちは察するにあまりあり、その一入(ひとしお)の淋しさを思います」(宮内記者会への文書回答/宮内庁ホームページ)https://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/gokaito-h14sk.html
「自分たち共同社会の出来事」という言葉は、深い思いのこもった適切な表現だと思う。
横田さん夫妻は、講演会などで、「ご自分のお子さんが拉致されたらと思ってみてください」と訴えていたが、拉致被害者の奪還は、国民が立場を問わず共有すべき課題ではないだろうか。
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安明進(アンミョンジン)氏の証言の信憑性については、もう一つエピソードがある。
安氏が在学していた労働党の工作員養成所「金正日政治軍事大学」には10人ほどの日本人教官がいたという。そのうちの一人に安氏は鮮明な記憶を持っていた。鹿児島県から1978年8月に拉致された市川修一さん(当時23歳)である。
市川さんは、婚約者の増元るみ子さん(当時24歳)と「夕陽を見に行く」と車で出かけ、帰ってこなかった。車は海岸のキャンプ場にとめてあり、砂浜に市川さんのサンダルの片方が残されていた。
車の中にるみ子さんのカメラがあり、フィルムを現像すると、その日のデート中にお互いを撮り合った楽しげな二人のショットがおさめられていた。両家とも二人の交際を喜んでおり、状況からは「蒸発」は考えられない。警察の記録には「事件性を含む失踪」として残されることになった。
安明進氏はが工作員養成所に在学中のある日、日本語の上手な同級生が、休憩所にいた男性の日本人教官に話かけようと近づいて行った。同級生と日本語と朝鮮語でやり取りしていると打ち解けて、安氏らに日本のタバコ、マイルドセブンをくれたという。
安氏に失踪者の写真を見せると、市川修一さんを指して、自信ありげに「この人に間違いない」という。
タバコをくれたその男性を安氏はこう描写した。
「北朝鮮の男性は髪を左分けにするのに、彼は右から分けていたので、珍しいなあと印象に残っています。それから、彼はよく赤いネクタイをつけていました。北朝鮮では大人は赤いネクタイをしない。するのは少年団員だけです」
髪の分け方など、北朝鮮のお国柄を感じさせる証言だが、市川さんの写真を見ると、たしかに髪は右から分けている。市川さんの家族で修一さんともっとも親しかったという姉のたか子さんに話を聞いた。
服装の好みはありましたか。
「とくにおしゃれというわけではないのですが、どこか一ヵ所にアクセントを付けて目立たせる着こなしをしていました」
どんなふうにですか。
「例えば、シャツやズボンは地味にして、真っ赤なネクタイをするのが好きでした」
安明進氏の話とみごとに重なっている。後日、修一さんの家族にお願いして何枚かの写真を送っていただいた。その中には、たしかに赤いネクタイの修一さんが写っていた。
1997年3月25日に「『北朝鮮による拉致』被害者家族連絡会」が発足するまで、拉致を疑われる被害者の家族のほとんどは名乗りをあげていなかった。若い人は信じられないかもしれないが、それまで、北朝鮮による拉致ということ自体知られていなかったのである。家族会結成のあとに公開された市川修一さんの写真は、白いハイネックのシャツ姿で、前もって安明進氏に「赤いネクタイ」が刷り込まれる余地はなかったのである。
さて、北朝鮮の元工作員で韓国に亡命した人は、数十人に上るという。中には安明進(アン・ミョンジン)氏と同じ、労働党の工作員養成所「金正日政治軍事大学」の先輩たちもいる。その先輩の一人が、1987年の大韓航空機爆破事件の実行犯、金賢姫(キム・ヒョンヒ)氏だ。(彼女が入学した当時の名称は金星(クムソン)政治軍事大学)
安明進氏の証言が日本で大きな反響を巻き起こすと、先輩たちは安氏の身を案じて「もうこれ以上しゃべるのはやめる」と忠告したという。彼らのほとんどは、日本人拉致を含む北朝鮮の秘密工作について証言することには及び腰だ。北朝鮮当局に睨まれると、場合によっては暗殺隊を仕向けられる。その恐ろしさを知っているからだ。
安明進(アンミョンジン)氏は、私がインタビューした1997年2月4日時点では、顔も名前も伏せるよう要求した。
ところが、あることをきっかけに、安氏は顔をさらしてメディアで証言するようになる。
1997年2月に安明進氏にインタビューしたとき、私は「めぐみさんの両親に会ってみませんか」と誘ってみた。彼は即座に拒否した。
「私は拉致した側の人間です。どのツラさげて彼女の両親に会えますか」と。
ところが3月15日、安氏はソウルで横田さん夫妻と面会した。朝日放送の石高氏が同行取材している。
横田早紀江さんによると、安明進氏はなかなか部屋に入ってこなかったという。
「あとで聞いたところによると安さんは、自分がめぐみを拉致したわけではないけれど、自分もかつてそういう仲間だったことを考えると、その親に会うのが躊躇(ためら)われたとのことでした。石高さんも、事前に私たちのことを詳しくは話しておられなかったそうです。」(横田早紀江『めぐみ、お母さんがきっと助けてくれる』(草思社)より)
石高氏は、めぐみさんの両親を連れてきていると告げずに安氏の取材アポを取ったようだ。
「十分か十五分くらい遅れて入ってきたのは、背広にシャツとネクタイ姿の精悍な青年でした。私は『ああ、普通の人なんだなあ』と思って、主人と一緒に立ち上がって、『本当によく来てくださいました。横田めぐみの父と母です』と言いましたら、安さんは少し緊張した様子で挨拶されました」
拉致に関する話のあと、こんな会話があったという。
「『みなさんも犠牲者なんですね』
私がそう口に出して言いましたら、安さんはこんなことを言いました。
『私にも父母と兄弟がいます。向こうに残してきたんですよ。めぐみさんは向こうにいて、お母さんとお父さんはこちらにいる。そしてご両親はこれほど心配しておられる。それは僕も同じ気持ちで、父や母のことを思っているんですよ』
『めぐみちゃんのことを私はいつもお祈りしてきましたけれど、これからは安さんのご家族の方のために、めぐみちゃんのことと一緒にお祈りさせていただきます』
私が言うと、安さんはふっと涙ぐんだ顔をされました。」
安明進氏は、横田さん夫妻と別れてから号泣したという。
この面会は安氏の気持ちを大きく変えたようだ。
そのあとは吹っ切れたように、安氏は顔出しでメディアに出るようになる。
「殺されることも覚悟しています」と彼は私に言った。
(つづく)