横田滋さんの逝去によせて4-初めての署名活動

f:id:takase22:20200609044537j:plain

自宅玄関前でのめぐみさん

 拉致問題を取材した記者たちが、それぞれ横田滋さんの人柄を偲ばせるエピソードを書いている。

 「滋さんは、テレビに若い歌手が登場すると、歌が好きだった娘とダブらせ涙をこぼし、風呂で湯船につかって独り泣いている姿も拓也さんが見ていた。家族には『強い父』というより『愛情深い父』だった」
 「神奈川県の自宅で取材後、帰りにタクシーの運転手がこう教えてくれた。『横田さん夫妻はタクシーには乗らない。雨の日も風の日もバス停にいる』。当時、家族会には多額の寄付が寄せられていたが、タクシー代に使うのは『申し訳ない』と固く思っていた」(北海道新聞「評伝」太田一郎記者より)

f:id:takase22:20200608011143j:plain

北海道新聞「評伝」(有田芳生議員のツイッターより)

 6月5日のブログに、横田さん夫妻がテレビ局までの交通費を自腹で払っていたと書いたが、補足すると、それはバスと電車の料金のことだ。

 一緒に電車に乗ったことがある。アイドルなみに顔を知られた夫妻のこと、乗客がすぐに気づいて「応援しています」、「お体に気を付けて」などと声をかけてくる。二人はいちいち「ありがとうございます」、「よろしくお願いします」と丁寧に対応していた。

 私なら煩わしくていやになるだろう。拉致問題という国民的課題の象徴である二人の立場を考えれば、セキュリティ対策として、政府から専用車と護衛をつけてもおかしくないと思う。(夫妻はきっと断っただろうが)

 体のあちこちに不調を抱え、高齢を押して全国で1400回超の講演をこなしながら、公共交通機関で移動するという身の律し方に、「古き良き日本人」という言葉が浮かんでくる。

 横田さん夫妻の活動には、講演や取材対応などのほか街頭署名もあった。

 私は、滋さんと早紀江さんがはじめて街頭に立ったときに取材している。その署名活動が行われたのは、めぐみさんが拉致された新潟だった。

 新潟では、早くも96年の年末に(!)、小島晴則氏(1977年の『新潟日報』のめぐみさん失踪記事を探して「現代コリア」に送った人物―6日のブログ参照)が、「横田めぐみさん拉致究明救出発起人会」を立ち上げていた。

 めぐみさん拉致疑惑の情報が広がり始めたのは、翌97年1月上旬に「現代コリア」がホームページに載せた時から、また共産党議員秘書の兵本達吉氏が横田家に電話をしたのが1月21日だから、この「発起人会」はそれよりはるか前に発足していた。

 この早い動きの背景の一つは、めぐみさん失踪から20年が経っていても、それが市民の記憶に残っていたことだ。新潟ではそれほど大きな出来事だった。

 「行方不明者の捜索としては、あの事件は、新潟県警はじまって以来の大規模なものでした。ヘリコプターが二台出て海岸線をくまなく捜し、潜水要員が海底を調べました。ここまでやって何も出てこないとは、実に不思議な事件だなあと、みな首をかしげました」(事件当時、新潟中央署の巡査部長だった小林貞雄氏)

 

 1997年4月12日、日曜の買い物客でごったがえしていた新潟市の繁華街、古町(ふるまち)交差点に、20人ほどがのぼりやハンドマイクを用意して集まっていた。
 そこに到着した横田さん夫妻に、小島氏が、これをかけてくださいと「たすき」を差し出した。

 たすきの前には「めぐみの父 横田滋」「めぐみの母 横田早紀江」、後ろには「めぐみ救出にご支援を」と大きく書いてある。まるで選挙の立候補者である。
 たすきをつけるとき、二人ともちょっと恥ずかしそうな表情だったのを覚えている。街頭で何かを訴えたことなど、これまで一度もなかったのだから、気後れするのは当然である。

 「北朝鮮に拉致された横田めぐみさんを救出しましょう」とハンドマイクから声が流れ、署名が始まると、通りかかった人が署名用紙の置かれた机に吸い込まれるように集まってきた。順番を待つ人の列がいくつもできた。並んで立つ夫妻に、新潟時代の知り合いが次々に駆け寄ってきた。
 ボランティアの運動員の中には、めぐみさんの中学の同級生たちもいて、署名用紙を持って通行人のなかに分け入っていた。
 滋さんが意を決したように自らマイクを持って「めぐみの救出のためにお力添えください」と訴え、早紀江さんもそれに続いてマイクを握った。

 娘を助けるのに恥ずかしいなんて言っていられない。
 「闘う親」に脱皮した瞬間だった。

 「私も娘がいるので、人ごととは思えません」とたくさんの人が声をかけていく。
 署名活動は大成功だった。

 小島氏は、10人の署名欄のある用紙を1万枚印刷していた。そのうち新潟県内だけでなく全国から、署名用紙を送ってくれとの依頼が届くようになる。

 滋さん、早紀江さんが街頭に立った新潟での活動から、拉致被害者救出の署名運動が全国に広まっていったのである。
・・・・・・・・・・・・・
 安明進氏による目撃証言は、めぐみさん拉致のはじめての「証拠」だった。


 自分の目でその女性を見ているうえ、拉致実行犯である当時の教官(工作員養成所の先輩でもある)から直接話を聞いている。それをテレビカメラの前で語っているのだから、証言としての価値は高い。

 では、石高リポートで情報の出元とされた、韓国に亡命した工作員安明進氏なのか。
 二人の証言内容を比べてみると―
              【安明進氏】   【石高リポートの「元工作員」】
 拉致された場所      「新潟」       「知らない」
 拉致された時期      「70年代」      「おそらく76年」
 クラブ活動        (情報なし)     「バドミントン部」
 拉致された時の年齢    「とても幼い」    「13歳」
 家族関係         (情報なし)     「双子の妹」(注)
 拉致された後の状況    (情報なし)     「精神に異常をきたし入院」
 目撃・認識した場所    「工作員養成所」   「ある病院」
 拉致実行者        「養成所の教官」   (情報なし) 
(注:実際は、めぐみさんの弟が双子。ただ「双子」というキーワードが重要である)

 安明進氏が韓国に亡命したのが1993年9月、石高リポートの元工作員は94年暮れだという。
 明らかに同一人物ではない。ということは、めぐみさん拉致の証言者が、複数いるということになる。

 実は、安明進氏が訓練を受けた労働党工作員養成所、「金正日政治軍事大学」出身の工作員で、韓国に亡命した人は、私が知るだけでも数人いる。安明進氏以外の亡命工作員が、めぐみさんなど日本人拉致被害者の情報を持っていることは、十分にありうることなのだ。

 では、なぜ他の人は、証言者として表に出てこないのか。

 その大きな理由に、韓国での自分の身の危険と、北朝鮮に残してきた親族や関係者への仕打ちへの懸念がある。

 まず、北朝鮮からの亡命者にとって、韓国が安全な場所とは必ずしも言えないという事情がある。

 安明進氏の証言をテレビ朝日ザ・スクープ」が緊急特集で放送したのが1997年2月8日だが、そのちょうど1週間後の土曜日の2月15日、韓国で一件の殺人事件が起きた。

 ソウル近郊の城南市書峴洞・現代アパート(418棟1402号)のエレベーター前で、1人の男性が二人組の男に頭を拳銃で2発撃たれ10日後死亡、犯人は逃走した。
 殺されたのは、当時の北朝鮮の最高指導者、金正日の甥にあたる李韓永(イ・ハニョン)氏。金正日の元妻(正式には結婚していない)成蕙琳(ソン・ヘリム)の実姉・成蕙琅(ソン・ヘラン)の息子で、マレーシアで暗殺された金正男の従兄にあたる。れっきとしたロイヤルファミリーの一員である。

f:id:takase22:20200609051304j:plain

前列左が金正日、右が金正男、後列左がソンヘラン、右端が李韓永(一男)

 モスクワとジュネーブで留学したのち、1982年に韓国に亡命した李氏(出生名は一男イルナム)は、整形し改名して身分を隠していたが、金一族の暴露本を出版し(『平壌「十五号官邸」の抜け穴』ザ・マサダ)、メディアの取材に応じるなどしたことで、金正日の怒りを買ったとみられる。

 暗殺を実行したのは、韓国に潜入した北朝鮮工作員だった。

 ちなみに、彼が銃撃された20年後の2017年2月13日、マレーシアの空港で金正男が暗殺されている。いずれも暗殺実行日は金正日の誕生日2月16日の直前。忠誠を捧げるバースデープレゼントである。

 北朝鮮の工作機関は、ターゲットが世界のどこにいても暗殺をためらわない。
 韓国に亡命した元工作員たちは、それをよく知っているからこそ、北朝鮮当局を刺激するような「証言」にはきわめて慎重になるのだ。

 実は、安明進氏は、1997年2月の私のインタビューのときは、顔出しはせず、名前も伏せるよう要求した。そこで「ザ・スクープ」では、顔を隠し、「元工作員A」として放送している。

 しかし、ある出来事が、彼に顔をさらしてメディアに出る覚悟をさせたのだった。
(つづく)