高須基仁さんとのちょっとした思い出

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 通勤途中に咲いていた西洋アサガオ。遅咲きで今が見ごろだ。
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 FNN,jp プライムオンラインに香港記事を2本書きました。関心のある方はお読みください。


「香港デモのスローガンは“Be Water” 革命の「水」はどこへ流れていくのか~ジャーナリストが現地取材で見た混沌」(17日公開)
https://www.fnn.jp/posts/00048180HDK/201909170700_takasehitoshi_HDK


「中国で逮捕状なしの拘束・尋問  香港を脱出した男が語る恐怖の真相~香港デモの原点は「銅鑼湾書店」事件だった」(19日公開)
https://www.fnn.jp/posts/00048213HDK/201909191900_takasehitoshi_HDK

 2本目で書いた「銅鑼湾書店事件」は、「逃亡犯条例」改正が出てきたときに香港人が想起して恐怖感にかられたという意味ではデモの「原点」である。
 12日付のブログで、周庭さんがこの事件に触れてこう言っている。
 《2015年の時に中国共産党を評論する、批判する本を売っている本屋さん銅鑼湾書店の人たちが、香港含めていろんな場所から中国大陸に捕まえられました。それはすごくおかしいですね。
 もともと中国の警察や中国共産党の人が香港や違う国で直接人を捕まる権力を持っていないので、だからそのことに関してもやっぱり香港市民はもちろん怒っていましたし、そして恐怖感がすごくありましたね、2015年の時に。いつか私たち中国が好きじゃないことやれば、いつか中国に誘拐されるんじゃないかなとか、こういう恐怖感があの時すごいありました。https://takase.hatenablog.jp/entry/20190912
 この事件、日本ではあまり知られていないので記事に書いてみました。
 このブログでも次回詳しく紹介します。

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 新聞で高須基仁(もとじ)さん(71)の死亡記事を見た。
 《芸能プロダクション経営などを経て、モッツ出版を起業し多数のヘアヌード写真集をプロデュース。女優の天地真理(67)、島田陽子(66)、高部知子(52)ら約400人を脱がせ、「人たらし」との言葉を生み出した》という人だが、私もちょっとしたご縁があった。
 あれはもう10年ほど前のことだったな、と思い出す。大学時代からの友人の東京新聞記者、鈴木賀津彦さんを介して「会いたい」と連絡があった。何だろうとモッツ出版に行くと、「高世仁さんとは高と仁の字が共通で、前からお会いしたかったんだよね」と言う。一気に雰囲気が和らいで、このへんが「人たらし」と言われる所以なのかと思った。
 すぐに酒盛りになった。そこにいたのが将棋の武者野勝巳7段。当時将棋連盟会長の米長邦雄氏の反対派の筆頭格で、高須さんが応援していた。私も米長氏の言動はおかしいと思っていたので、米長批判で盛り上がった。

    そのあと、私も知り合いのテレビ局の人や出版社の人たちもまじえて盛大な飲み会になり、朝方までワイワイ楽しく飲んでいた覚えがある。

 さっき、調べたら、この日のことが高須さんのブログで紹介されていた。2007年のことだった。
 2007.02.13XML「北朝鮮問題・高世仁朝日ニュースタージンギスカン
https://plaza.rakuten.co.jp/takasumotoji/diary/200702130000/ 

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高須さん(中)と私(右)

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 ブログではこの宴会の席から浅草の「ハレム」に流れていったと書いてある。この「ハレム」というのは、私もこのブログで何度か紹介した、かつて東京新聞「したまち支局」の名物記者、さっちゃんこと丹治早智子さんが夜バイトしていた店である。(https://takase.hatenablog.jp/entry/20151119

 このとき私もさっちゃんに会っていたはずだが、その辺の記憶は定かでない。
 高須さんは「ハレム」の行きつけで、さっちゃんが亡くなったときもブログで書いていた。https://plaza.rakuten.co.jp/takasumotoji/diary/20151002/

《★9月18日(安保法案改正の夜)に60歳で乳ガン転移で逝去した東京新聞社下町支局丹地早智子さんを若鮎&清流のイメージと共に思い出す!!
昼間は東京新聞新聞記者丹地早智子、夜は浅草ひさご通り老舗スナック「ハレム」のホステス稼業のさっちゃん。
約15年にわたる永い間、お世話になりました。
東京新聞の私の短期集中連載「わが町 わが友」の24回編集担当者。
又、毎春先にタケノコの煮物を届けてくれた「ハレム」の同僚ホステス稼業のなっちゃんも68歳で今夏8月に乳ガン転移で死んだ。
8月中旬から9月中旬には浅草観音裏に「弔い」で浅草の旧い友人達と秘かに何回も何回も出向きました。》

 どんどん思い出がつながっていく。

 高須さんは「脱がし屋」と言われ、なにか無頼なイメージがあったが、話していると、とても他人に気を使う人のようだった。

    女優やタレントを連れて海外に行くときに気を付けていることがあるという。空港では必ず出発ゲートで待ち合わせる。その理由は、「韓国籍のタレントも多くて、なかにはそれを隠している人もいるでしょ。イミグレの出国手続きで僕に国籍がばれちゃうのはいやだろうと思って」。気遣いの人なのである。
 《長男の基一朗さん(42)によると、歩行障害があったため今年5月に検査したところ、肺がんが見つかり、入院。すでに脳に50カ所以上転移しており、余命は1週間単位と告げられた。
 それでも8月15日には東京・新宿ロフトプラスワンで行われたイベントに、車いすに乗って出席。これが最後の公の場になった。プロデュースしている毎年恒例の反戦イベントと、自身の最新刊の出版イベントを兼ねていた。基一朗さんは「参加したのは30分だけだが、直後に体調を崩した。本人は『死んでもいい』という覚悟で、すさまじかった」と話した。
 高須さんはサンケイスポーツおはよう面で「激ヤバAV嬢」(毎週月曜掲載)、夕刊フジで「人たらしの極意」(毎週水曜掲載)を連載しており、18日付夕刊フジの原稿が絶筆。ベッド脇に置いたスマートフォンで原稿を書き、送信したのが亡くなる約10時間前の17日午前11時15分。基一朗さんは「最後の瞬間まで、“高須基仁”でした」と語った。
 基一朗さんによると、死の数時間前、孫を病床に呼ぶか聞くと「うるさいから連れてこなくていいよ」。これが最後の言葉となった。自らひげをそり「いい笑顔で、家族に見守られて」旅立ったという。》(sanspo.com
 人の亡くなる時の様子にはとても関心があるが、亡くなるわずか10時間前に原稿を送信したとはすごい。
 高須さんのブログにはきょう19日付けで「長男・高須基一朗より最後のブログ更新」が載っている。来週水曜の「夕刊フジ」の連載が最後になるという。https://plaza.rakuten.co.jp/takasumotoji/diary/201909190000/

 ご冥福をこころよりお祈りします。