李明博の竹島上陸はなぜ?

takase222012-08-17

今週の朝日歌壇にはわこさんのこんな歌が入選していた。
太陽に溶かされながら歩く道溶けない声でセミが鳴いている
                松田わこ
きょうも暑かった。午後、かんかん照りの中、長い距離を歩いて汗まみれになった。実際、溶かされるようだ。そんな中、セミジーという鳴き声は力強いたしかさを感じさせる。うまく詠んでいるなあ。
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ある雑誌から電話があり、竹島上陸を強行し、異常な反日言動を続ける李明博韓国大統領の人物像について問い合わせがあった。
大統領になったあと、李明博について特集を制作したことがあり、そのときの取材について教えてほしいというのだった。
彼は経済大統領といわれ、実務的な考え方をするだけでなく、「親日」であるとも見られていただけに、いきなりの強烈な「反日」パフォーマンスに驚いた人は多い。
たしかに、李明博は大統領就任にあたっての演説で、「2008年を大韓民国『先進化の元年』と宣布する」「私たちは『理念の時代』を超えて『実用の時代』へと進まねばなりません」と言っていた。(08年1月25日)
また、08年1月17日の記者会見では、
「私自身は、これからの新しい成熟した韓日関係のためには、謝罪や反省をしろということは言いたくありません」と対日関係について前向きに進める意図をはっきりと語っていたのだ。
李明博真珠湾攻撃の日、1941年12月8日、大阪に生まれた。父親は1920年代から日本に住んでいた。息子は明博(あきひろ)という日本風の名前をつけられ、「あきちゃん」と呼ばれていた。http://d.hatena.ne.jp/takase22/20080421
日本での一家の暮らし向きは比較的恵まれていたが、終戦3ヵ月後に乗った引き上げ船が沈没し、家財道具もすべて失いまさに裸一貫の帰郷となった。父の故郷ポハンでは赤貧洗うがごとき生活で、失業した父にかわり、母親が市場で野菜売りをし、身を粉にして暮らしを支えた。
李明博は自伝『神話はない』で、母親が人生観に大きな影響を与えたと語っている。
「貧しい者が、金持ちの助けを望んでいたら、一生その貧しさから抜け出せないだろう」と母は教えた。
「後になって私は母が身をもって実践し示してくれた教えの力に気づくことができた」と李明博は言う。
こうした育ちが、彼の経済第一、新自由主義的な理念の形成に与っているとみてよいだろう。
では、彼の哲学には「お金」「経済」しかないのかと言えば、そうではない。
1964年、日韓正常化交渉に反対する大運動が起きたとき、李明博高麗大学商学部の学生会長として激しい街頭デモを主導し、逮捕されている。このとき西大門刑務所に入れられた活動家からは多くの政治家が出ている。彼は韓国を豊かにすべく、企業家の道を歩むのだが、この反日闘争の経験は彼の思想形成において、大きな意味を持っていると思う。
この反日の思想が、その後も「おき火」のように心の底に燃え続けていた可能性がある。「経済のため」に抑えられていた「反日」の地金が、いま現れたと解釈することもできる。
(つづく)