大阪で生まれた李明博

takase222008-04-21

 きょう、一ヶ月ぶりくらいで休みを取った。
 地図で数キロ先の公園を探し、そこを目指して自転車をこいでいく。知らない道に出ると、異国の旅人のような気分でペダルをこぐ。近所のサイクリングでも気持ちの持ちようでとても新鮮になる。公園のベンチでしばらく本を読んで帰ってきた。とても気持ちがいい。いい休日だった。

 途中、やたらとハナミズキが目に付いた。ちょうどいま花が咲いている時期で目立つのだが、それだけでなく、明らかに数が増えていると思う。最近街路樹として植えられたところが何箇所かあった。このハナミズキ人気には何か理由があるのだろうか。あっさりした淡白なものが好まれるご時勢なのか、それとも管理しやすいなど実用的な理由なのか。
 ネットで調べると、ハナミズキアメリカから来たという。「1912年に当時の東京市からアメリワシントンD.C.へ桜(ソメイヨシノ)を贈った際、1915年にその返礼として贈られたのが始まり」とある。マラソン野口みずきの名前はこの木からとったそうだ。


 写真は李明博が極貧の少年時代を過ごした場所。父親の故郷、浦項(ポハン)郊外の山麓だ。中央に見える瓦屋根の廃寺の中を区切って10世帯以上が暮していたという。今も人が住んでいる。

 李明博は苦学して高麗大学に進学。学生運動を指導し64年、日韓条約反対運動で逮捕・投獄された。運動仲間は多くが政治の道に進んだが、彼は獄中で、この貧しい韓国を豊かにするのが先決だと考え「経済」の道を選んだ。この選択には、きっと若い頃の苦しい生活が影響していただろう。

 もっと遡ると、彼の生まれは日本だった。
 李明博氏は、41年12月8日、真珠湾攻撃の日に、いまの大阪市平野区の「島田牧場」で生まれた。島田牧場は牛が250頭ほどいて、李明博の父親、李忠雨(イチュンウ)さんは飼料やりなどの牛の世話や乳絞りの作業責任者の立場にあった。戦時中、日本の男たちは兵隊に取られ、牧場でも朝鮮半島出身者背が貴重な労働力だった。
 父親は日本海に面した現在の浦項(ポハン)の出身で、背が高くて体格がよく、温和な人だった。牧場では古手で、彼に引き寄せられるようにして同郷の男たちが海を渡ってやってきた。父親は牧場主から非常に信頼されて、作業責任者、まとめ役のような立場にあった。島田牧場の敷地の中に朝鮮人作業員の住宅があって、李一家は家族で大きめの家に、多くの独身男性は小さな家に住んでいた。 
 戦時中、この牧場には10名ほどの朝鮮半島出身者とその家族が住み込んでいたという。牧場にはいちじくの木がたくさんあり、野菜をつくる畑もあった。

 この話は、すぐ隣の「馬場牧場」に住んでいた、李明博の母方のいとこ、金鴻植さん(キムホンシク)さん(79)とその弟、金滎植(キムヒョンシク)さん(77)から聞いたものだ。
 島田牧場は乳を搾ってそのまま生乳で牛乳販売店に卸していた。一方、馬場牧場は乳を熱して殺菌し瓶詰めして宅配までしていた。金兄弟の父親は配達係りだった。

 李明博の上には、長女貴先(キソン)、長男相殷(サンウン)、次男相得(サンドゥク)、次女貴愛(キエ)がいて、その下に妹の貴粉(キブン)がいた。金鴻植さんは、李明博より13歳も上で、赤ちゃん時代の李明博氏を、日本名の月山明博(つきやま・あきひろ)から「あきちゃん、あきちゃん」と呼んで可愛がったという。

 李明博の母親とその姉(金兄弟の母親)の姉妹は非常にキリスト教プロテスタント)の信仰心が篤かった。李明博の母親は厳しく、毎週日曜には、子どもたちは必ず日曜学校に行かされたそうだ。水曜には祈祷会もあった。金滎植さん自身、長年牧師をつとめ、現在は引退して名誉牧師となっている。彼らが通ったのは、平野区の隣の八尾市の竹渕(たこち)教会。伝道師も信者も朝鮮半島出身者だけの教会だったという。

 「毎年クリスマスも祝いました」と金滎植さん。キリスト教徒が肩身の狭い思いをしていたはずの戦時中、朝鮮人だけの教会が活動していたというのは意外だった。こういう自由な空間がまがりなりにもあったのだなあ。
 もっとも嫌がらせもあったという。
 「ときどき、特高が来て、教会のなかでわざと煙草をふかしたりして挑発していました。また、説教を日本語でやらないとすぐ中止させられました」と金滎植さんはいう。
 李明博の姉、貴先さんは、韓国のマスコミに島田牧場時代を懐かしむコメントを出し、当時の牧場主の娘のエイ子さん(83)の名を挙げていた。そこでエイ子さんに電話した。去年まで李明博一家の消息は全くしらず、大統領に当選して大阪生まれだと分かっても、まさか島田牧場に関係していたとは思わなかったという。間に立つ人がいて、最近電話口で貴先さんと話したという。エイ子さんによると、「私は韓国語できませんし、向こうは片言の日本語で、会話にもならなかったんですが、近く来日して再会したいそうです」。
 エイ子さんは、島田牧場では、毎年年末には作業員をまじえて餅つき会もあり、家族的な雰囲気だったと思い出を語ってくれた。

 李明博一家について取材しているのだが、戦時下の朝鮮人と日本人との具体的な関係を知ることができたことも収穫だった。日本人も朝鮮人も子どもたちは、メンコやビー玉で一緒に遊んだ。金滎植さんは「差別は感じなかった」という。こういう話にはほっとさせられる。

 島田牧場の隣が「早川電機」(シャープ)で、当時は軍需工場だった。アメリカ軍の空爆で延焼するのを避けるため、44年に工場の周辺は立ち退きを迫られ、取り壊されることになった。島田牧場はその後、大阪府寝屋川市に移り、現在は「京阪牛乳」という社名になる。
 李一家は、愛知県の岡崎、ついで三重県伊賀上野へと、海軍の飛行場建設を請け負う仕事をする父親について引越しした。父親は、仕事ができた人のようで、すぐにたくさんの人夫を雇って建設の請負をやっていたという。李明博氏ものちに土建業(現代建設)で才覚を発揮することになるのが面白い。