「戦争屋」と呼ばれて 2

86年のフィリピン革命の後、日本のマスコミがたくさんの記者、カメラマンをマニラに出張させていた。休暇には日帰りで行ける観光地に行ったりした。マニラ湾に浮かぶコレヒドール島もそんな観光地の一つだった。
コレヒドール島は、要塞化されたマリンタトンネルや各種の武器が展示され、米軍関係者の戦跡ツアーが最もたくさん訪れるところだ。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%AC%E3%83%92%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%B3%B6
日本軍が攻めてきたとき、マッカーサー将軍はコレヒドールに司令部を置いていた。ここを撤退するさいに彼が言ったとされるのが「アイシャルリターン」だという。(実際は違うらしいが)
そして戦局が逆転し、45年2月には米軍が再び占領したが、このときの激戦で、7000人近い日本兵が戦没している。
あるとき、知り合いの日本のテレビ局の特派員に、気になる話を聞いた。コレヒドール島に遊びに行ったら、島のガイドに「日本軍の墓」に案内され、ジャングルの中に白い墓標が整然と並んでいるのを見たという。ガイドは案内料としてチップを要求したそうだ。
私は笑った。そんな墓、あるはずがない。
米軍は、戦闘が終わると、自軍の死体はすべて丁寧に回収して本国に送り、戦場に散乱した戦死敵兵(日本兵)は、大きな穴を掘ってブルドーザーでまとめて投げ込んで土をかけるという処理をする。これを「戦場掃除」という。敵兵一人づつの墓を作るなど聞いたことがない。
では、日本軍が作ったのか。それは100%ありえない。コレヒドール戦は、島の形が変わったといわれるほどの激戦で、日本軍は玉砕したからだ。
フィリピン人が日本人からチップをもらうために、「墓標」らしきものを立てたのだろうと、つまり詐欺だろうと思った。でも気になってしかたがない。すぐに島に行ってみた。
すると、たしかにあったのだ。
あたりは、イピルイピルという細い木が一面に茂るジャングルだ。ジャングルの中に少し分け入ると、長さ60〜70センチの白い杭が木々に隠れながら、たくさん立っているではないか。白いペンキの塗られた木の杭だ。その数は100や200ではきかない。それらが一直線に同間隔で並んでいる。田植えの後の田んぼのように、縦横斜めどこから見てもきれいにそろっている。
朽ちて倒れている杭も多く、かなりの年月が経っていると見た。日本人を騙すためだけに、これだけの労力を費やすというのは考えにくい。どう見てもお墓である。
次は、マニラ在住の八木さんという、フィリピンで戦った元日本兵を伴って現地に行った。彼も「米軍が日本兵の墓を作ったとは信じられない」と驚いている。では米軍に協力したフィリピン人の墓の可能性は?それなら十字架でないとおかしい。
私は混乱してきた。これは一体何だろう。日本兵の墓だったら大変なことだ。私は夢中になって調べ始めた。
取材の詳細は省くが、ついにスキナー氏という元米軍兵士でコレヒドール島を調べている人に出会った。彼の持つ資料、アメリカ公文書館の資料、フィリピン国防省の資料などを精査し、日本兵の墓だと確信、厚生省に通知した。
この墓の存在は、86年8月27日の当時の「ニュースステーション」で報じた。とても充実感を得られたスクープだった。
スクープにはいろいろな種類がある。会社や政府機関が発表を予定している情報をその一日前に入手して報じる。これは「早さ」のスクープだ。スクープに「抜いた」「抜かれた」という表現がよく使われるが、それは、この手のスクープが典型的な最もよくあるタイプだからだ。
しかし、過去に再び光をあてる「発掘型」のスクープもある。
放送の後、私にコレヒドール島に日本兵の墓があるよと教えてくれたテレビ局の特派員が、恨めしそうに「オレの方が先にあの墓を見ていたのになあ」と言った。
違ったのは、彼はそれが日本兵の墓だと言われても不思議に思わなかったのに、「戦争屋」の私は「変だな」と心にひっかかりを持ったことだ。この「ひっかかり」が大事だと思う。ちょっとおこがましいが、発掘型のスクープに不可欠なのは、その人の問題意識なのだ。