戦犯タクマを追って3

 次に、戦犯裁判について考えてみたいと思います。日本軍関係でA、B、C級あわせて延べ被告人数5677人、死刑が990人という記録があります。
 フィリピンの戦犯裁判はアメリカの統治下にあったので、米軍の管轄で始まり、1947年のフィリピンの独立に伴い、フィリピンの管轄に移行しています。米軍によって起訴されたのが212人、そのうち死刑69人。フィリピン管轄になってからは、被告人168人、確定死刑が93人でしたが、恩赦でほとんど助かって死刑は17人だけです。
 東地が裁かれたのは、米軍の管轄下で、現在のアメリカ大使館のある場所で裁判が行なわれています。
 この裁判のやり方は、収容所にいる日本人が呼び出され並ばされる、そこにフィリピン人の犠牲者やその家族が証人として連れてこられて、「村人を殺したのはこの人だ」というふうに指差していく。日本兵からは「ポイント」とか「見合い」と呼ばれています。驚くべきことに、伝聞証言、宣誓口述書だけでも証拠として採用されているんですね。
 フィリピンのB級裁判について書かれた面白い本があります。佐藤操『恩讐を越えて―比島B級戦犯の手記』(大手町ブックス1981)。これによると、例えば住民から「サトウ」という日本兵が悪いことをしたと訴えがあると、収容されている日本人から「佐藤」という名の人が全部呼び出され、この中のどれだ、と指差しさせる。わざわざ遠くから出頭したフィリピン人証人は、そのなかに心当たりの人物がいなくとも、日本人なら誰でもいいと思って、誰かを指差すということも多かったようです。現に、事件当時他の島にいたのに挙げられたという人さえいます。
 日本関係の戦犯裁判は51ヶ所で行なわれましたが、フィリピンでのそれは、最も初期のものであると同時に、裁判のスピードが極めて速いものでした。
 フィリピンの日本軍の降伏は9月3日。「山下裁判」は10月にもう始まり、死刑執行が翌年2月というスピードです。これは「東京裁判」(46年5月開始、48年12月処刑)や他のBC級裁判と比べてはるかに速いんです。
 ではなぜ、フィリピンの裁判がこんなに急いで行なわれたのでしょうか?
(つづく)