前回のブログに書いた経緯でつかんだ私の初めての「大きめのスクープ」、コレヒドール島に、太平洋戦争で唯一の米軍が作った大規模な日本兵の墓地があるのを「発見」したニュースは、テレ朝の「ニュースステーション」で大きく取り上げられ、1986年8月27日の主要紙と地方紙に写真付きで載った。「日本電波ニュース」マニラ発と社名が載ったのはうれしかった。以下は毎日新聞。
《【マニラ26日=日本電波ニュース】
フィリピンのコレヒドール島で第二次世界大戦直後に作られ、ジャングルに埋もれていた日本兵の集団墓地(約300体=推定)の存在がこのほど明るみに出た。2、3日中にもフィリピン政府はこの「41年ぶりの発見」を日本側に正式通告する模様だ。
現場はおたまじゃくし型のコレヒドール島の尾っぽのほぼ中央部に位置し、米軍指揮下にあった旧比軍第92砲兵隊陣地跡に近接している。
道の両側は熱帯性樹木で豆科のジャイアントイピルがおおい尽くすジャングル地帯で雨期には足を踏み入れるのも困難だ。その道路から約20m入ったところからほぼ正方形(東西33.5m、南北32m)の墓地跡があり墓標らしきクイがたっている。
比較的腐食していないクイの位置や状態から推定すると白ペンキ塗り、高さ60センチの無名の墓標が東西方向に2.73m間隔で整然と並べられ、総数は300−325本。土中から人間の臼歯と骨片が露出しているものもある。
これを日本兵の集団墓地と断定してよい根拠は次の点。
第一に、1945年12月29日付米軍第3045遺体処理部隊の報告書の存在。
第二に、その第3045部隊がつくった当時の日本兵墓地の写真と比較して、今回発見された場所が同一である可能性が極めて高いこと。
第三に、第3045部隊の報告書にある「日本兵の遺体300」という数字が今回の調査結果とほぼ一致すること。
マニラに近く(西42キロ)わずか面積5平方キロのコレヒドール島でも戦死日本兵は6850を数えるが、遺骨収集は1130柱しか進んでいない。しかも、ここ17年間は一体も引き取られていない。(数字はいずれも厚生省による)
終戦直後コレヒドール島に上陸した米軍第3045遺体処理部隊が、日本兵捕虜を動員したとはいえ、敵兵を一体一体埋葬し、墓標をたて、きちんとした集団墓地をつくっていたのはなぜか、それはナゾの部分だ。捕虜でなく戦闘中死亡した敵兵への扱いとしては全く異例で、太平洋地域で唯一の例とみられる。
コレヒドール戦史を研究調査している米退役軍人、Z・スキナー氏(オレゴン州、銃砲店経営)によると、第3045部隊が墓地に収容した日本兵の遺体はマリンタトンネル内とマリンタ高地に白骨化していたものだという。
1945年2月のコレヒドール玉砕戦のさい、最後にマリンタ高地に陣を構えていた陸軍部隊は臨時歩兵第16隊の第3中隊(長は芋野和三郎中尉、150人)だった。》
私はニュースを配信する前にすでに日本の厚生省に通報していた。戦後40年以上経ってこれだけの規模の集団墓地が見つかったことは厚生省を驚かせ、翌87年には大規模な遺骨収集団をコレヒドール島に送って遺骨を回収した。その数は、手元に当時の新聞記事が見当たらないので、うろ覚えだが、600柱を超えていた。一つの墓に2柱、3柱入っているのもあって、遺体の数は墓標の数の2倍以上あったのだ。
墓地が作られた直後の写真を入手したら、きれいに整地され、整然と白い墓標が一面にならんでいる。アメリカが、なぜ、ここにだけ立派な敵兵の集団墓地を作ったのか。これは謎のままだ。
たとえば、コレヒドール島に対するマッカーサーの特別な思い入れなどに関係するのだろうか。
その墓地がジャングルと化し、忘れ去られてしまうのに数年とかからなかったらしい。熱帯の植物の繁殖力のすごさ、また、人々の忘れ去るスピードに驚く。米兵の施設ならお金も出してくれようが、フィリピンは戦後しばらくは日本との交流がなく、現地にとって、日本兵の墓には何ら「実益」もなかったのが忘れ去られた理由だろう。
この謎の墓地の「発見」は、私にとっては初めてのやや大き目のスクープだった。そこに眠っていた遺骨は、いま千鳥が淵墓苑に納められている。私が毎年一度は千鳥ケ淵に慰霊に行くのは、そこが私のジャーナリストとしての一つの原点でもあるからだ。