「戦争屋」と呼ばれて

 8月18日の日記で思わせぶりに終わっていた「スクープ」の話を、遅ればせながら書いていこう。
 私は86年初めから約3年間、日本電波ニュース社の特派員として、マニラに駐在していた

 86年2月のフィリピン民衆革命、ひっきりなしのクーデター騒ぎ、そして三井物産マニラ支店長、若王子さん誘拐事件と政治関連の事件が続き、その合間をぬうように、日本人がらみの保険金殺人やジャパユキさんの事件、生体腎移植ツアーなど社会面の取材の注文が次から次へと入ってきた。http://d.hatena.ne.jp/takase22/20071013
d.hatena.ne.jp


 フィリピン人2人を雇って支局を開設したが、仕事がどんどん増え、一年後、現地スタッフは6人に増えていた。
 そんなドタバタのなか、私はよく戦跡を訪れた。
 フィリピンでの日本兵戦没者数は、太平洋戦争の戦地で群を抜く、51万8000人。なんと、日本が15年戦争を戦った中国より多いのだ。フィリピンでは、投入した日本兵の8割が戦病死している。この比率は、地獄の戦いと言われたインパール作戦よりもはるかに高い。インパール戦は局地戦だが、こちらはフィリピン全体で8割である。私は日本軍の作戦指揮の責任を厳しく問いたいが、これについては、また日を改めて書く。

 とにかく、フィリピンでの面積あたりの日本兵戦没密度はすさまじい。いたるところに「戦跡」がある。
 「日本人のセンチメンタル・ツアー」とフィリピン人が呼ぶ戦跡ツアーに同行させてもらったことがある。フィリピンで戦没した兵士の遺族が団体でマニラのホテルにチェックイン。翌朝、貸切バスでホテルを出発する。ガイドをするのは、同じ部隊で生き残った戦友だ。バスの中で、現地に何度も来ているその戦友が、マイクを握って戦闘の辛い思い出を語っていく。2時間も走ると、部隊がたてこもった山々が見えてくる。
 「右に見えるあの高い山です」と指し示すと、もう遺族からはすすり泣きの声が聞こえはじめる。
 辺鄙な山中の村にバスが着く。狭い山道の路肩に、戦友たちが建てた、部隊名を彫った石碑がある。遺族にラウドスピーカーのマイクが渡される。故人の妻が「あなたー、ごくろうさまでしたー」と泣きながら叫ぶ。「おとうさーん」と呼びかけたのは息子さんだろう。一人ひとりが思いのたけを山に向かって叫んだあとは、石碑にお菓子や酒、煙草を線香とともに供えて手を合わせる。
 こうした慰霊碑は、村人に管理を依頼していて、ツアーで訪問するたびに謝礼を渡している。ツアーが着くと、子どもたちが湧いて出たようにたくさん集ってくる。ツアー客からお駄賃をもらえるからだ。

 日本兵の認識票やヘルメットや小銃などを、ツアー客に売りに来る場合もある。洞窟などから見つかる日本兵の遺品は、ツアーの立ち寄りそうな戦跡で「みやげ物」として売っているのだ。

 ツアーに参加する人々にとって、戦争はまだ終わっていない。私はこうしてたくさんの戦跡を訪ね、日本軍の元兵士や遺族たちに接し、その敵側である米軍で戦ったフィリピン人に会い、さらには戦争で犠牲になったフィリピンの民間人から話を聞くなかで、戦争について多面的な見方ができるようになったようだ。

 どんどん「戦争」にのめり込んでいった私を、当時の特派員仲間は「戦争屋」と呼んだ。
(つづく)