フィリピン今昔紀行―最悪のスラム 

takase222007-10-11

 きょうは、港のそばのスラムに行った。
 マニラには以前からスラムが多い。スラムは、地方で食い詰め、仕事を求めて都市部にやってきた人々が、国有地などに不法に住み着いてできた。港湾、河川、鉄道線路のそばにびっしりと掘っ立て小屋が建つ光景がいたるところに見られる。
 港湾に沿ったトンド地区の大通りを車で走った。通りに沿って、木やトタン板の切れ端を組み合わせた「小屋」とも呼べないような家々が並ぶ。傾いて立方体をなしていない小屋もある。そこら中に、学校にも行っていないような子どもたちが歩き回っている。痛ましいほどの貧困がむき出しになっている。私が駐在していた80年代後半と変わっていない。
 渋滞で止まっていると、隣のトラックから男が降りてきた。荷台に小さな男の子が飛び乗って荷物をかっぱらおうとしたのだった。見つかったと察して、子どもはすばやく逃げてしまった。
 フィリピンに住んだ3年間で様々なスラムを見てきたが、最も悲惨だったのは、「スモーキーマウンテン」だった。
 スモーキーマウンテンというのは、ゴミ捨て場で、マニラ中のゴミを集めて巨大な山になっている。そのうず高く堆積したゴミが自然発火してくすぶり、煙がたなびいているのでこんな名前がついた。煙は強烈な臭いを放ち、近くを通るときは車の窓をしっかりしめてできるだけ速く走り去るのだった。
 ごみ収集車からゴミが降ろされると、舞い上がるほこりのなか、子どもを含む何人もが群がってビニールやビン、金物などお金になるものを拾う。マニラのゴミは、高温多湿のなか発酵が激しく、すさまじい臭いがする。撮影でゴミが降ろされる現場に行ったとき、あまりの臭いに激しい吐き気がし、胃の内容物が喉まで上ってきた。ここで吐くわけにはいかないので、必死にそれを飲み下して撮影を続けた記憶がある。
 彼ら、ごみを生活の糧にしている人々が住み着き、山に貼りつくようにスラムができた。
 スラムの暮らしとはどんなものか。電気はないので盗電するか、ランプ生活となる。水は水道のあるところから1リットルいくらで買ってくる。水が十分使えないので清潔を保つのは難しい。
(写真は、買ってきた水を自転車で運ぶ男)
 ではトイレはどうするのか。大便は、紙やビニールに包んで、例えば海に向かってえいやっと投げ捨てる。スラムが海や川に近いところに多い一因は、そこに自然のトイレ兼ごみ捨て場が確保できるからだ。
 一日中、埃や煙が漂うなかに暮すスモーキーマウンテンの人々には結核が多い。私が取材したのは夫婦と3人の子どもの5人家族だったが、うち3人がNGOにより結核と診断された。医療費をまかなえず、ビタミン剤を買って飲んでいるだけだった。栄養も休養も十分に取れないでは悪化する一方だ。ここにはありとあらゆる病気がある。伝染病だけでなく子どもの怪我も多い。ガラスの破片などもあるゴミのなかをハダシで歩けば足を切りすぐ化膿してしまう。
 その家族のもとに通って撮影していたのだが、ある日、近所の人が大きな犬を囲んでいる。ゴミのなかから拾ってきたシェパードの死骸だという。まだ腐敗していないので、食べるというのだ。マニラのゴミにはペットの死骸など、日本では考えられらないものまで混じっている。
 ここは、ひどすぎる。こんなところに人間が住んではいけないと心底思った。そして、この社会を根本からぶち壊したいと思い、当時大きな勢力を持っていた共産ゲリラに、そしてマルコス政権から替わったアキノ政権に希望を託したものだった。
 スモーキーマウンテンは95年に解体された。そこは今、草が生えた緑の山になっている。だが、変わったのはゴミ捨て場が海側に数百メートル移転しただけ。そこでは、20年前と全く同じ、ゴミに依存して暮す人々がいた。