フィリピンも「飯食ったか?」だった

takase222009-01-20

18日の日曜、マニラ市の下町にあるキアポ教会の周りは人でごったがえしていた。教会のミサは毎回人が入りきれず、あふれた人は外に設けられた大スクリーンで神父の説教を聞いている。ご利益があるという「黒いキリスト像」には行列ができ、熱心に長い祈りをささげる人の姿があった。
急にマニラに出張し2泊してきた。
7年住んだタイは私にとって第二の故郷だが、滞在期間でいえば3年いたフィリピンはそれに次いで長い。第三の故郷と言ってもいい。
どこを歩いても、二十数年前の思い出がよみがえりノスタルジアに包まれる。
生ゴミの腐敗臭、ジプニーが出す排気ガスストリートチルドレンなど貧しく荒んだ光景は昔と同じだ。そこに同じように笑顔で生きているフィリピン人がいる。
当時いっしょに遊んだ日本人の友人が今もいて食事をした。
このブログで、アジアのかなりの地域で、伝統的な挨拶が「飯食ったか」だということを書いたがhttp://d.hatena.ne.jp/takase22/20081213、フィリピンはどうだったか忘れていたので、聞いてみた。
すると案の定、田舎ではタガログ語で「クマイン・ナポカヨ?」(食事をしましたか?)というのがごく普通の挨拶だという。相手は「タポス・ナポ」(もう済ませました)と答えるという。
こうなると、新たな疑問が湧いてくる。
アジア各地に同じ挨拶があるのはなぜだろう?
食べるということは人間にとって一大事だから、自然発生的に、各地、各民族で同じ挨拶をするようになったのか?
あるいは、どこかから「輸入」されて広まっていったのか?
古くからアジア各地に入っていったチャイニーズが広めたという仮説は成り立つだろうか。かつて、ボルネオの奥地でカヤン族という先住民を訪ねたとき、お墓にたくさんのシナの古い陶器が置かれていたのを思い出す。シナの陶器はこんなところまで来ていたのだなと驚嘆した。しかし、単語や数の数え方ならともかく、挨拶まで影響されるだろうか?
それを言うなら、世界中で(インド文化圏を除く、かなりの地域で)首を縦に振ると肯定で、否定の際に横に振るのが共通なのはなぜなのか?
まさか、植民地化の過程で世界中が「教育」されたわけではあるまい。
日本の時代劇でも「姫、それはなりませぬ」などと言うとき首を振っている。これはドラマだが・・。
赤ちゃんはおっぱいを飲みたくないとき首を振って拒否する。子どもが「いやいや」をするとき、首だけでなく体全体を横に振る。いやな男に迫られとき女はやはり横に振り払う動作になる。生理的に拒否は横運動が自然なのかもしれない。
では楯に首を振って肯定になるのはなぜか。「横」に対する「縦」という単純なことなのか。
日本語の「頷く(うなずく)」という語は古くからあるはずだ。これは「うなじ」と関係がありそうだ。
聖徳太子道元も我々と同じような首の振り方で肯定、否定を表していたのだろうか。