イスラエルがガザ市の全面掌握に向けた作戦がエスカレートし、ニュース映像ではとにかく破壊、破壊の連続を見せられている。ガザ全体を更地にしてしまうらしい。同時にガザ各地への非人道的攻撃を続けている。
【エルサレム共同】パレスチナ通信は30日、イスラエル軍が同日未明からパレスチナ自治区ガザ各地を空爆し、多数が死傷したと報じた。南部ハンユニス西方マワシ地区では避難用のテントが攻撃を受け、妊婦を含む3人が犠牲となった。中部デールバラハでも住宅が空爆され、少なくとも6人が死亡し、多数が負傷した。
イスラエル軍は、ガザの中心都市、北部ガザ市の制圧を目指し攻勢を強めている。同通信によると、市内にあるガザ最大の医療機関、シファ病院付近で住宅が空爆され、少なくとも6人が負傷した。イスラエル軍は、ガザを南北に隔てる軍事区域「ネツァリム回廊」周辺で支援物資を待つ住民にも発砲した。
今日は連載を中断して、ガザについて。
パレスチナ問題とは何か、いろんな本を読んでもよくわからない。先日紹介した萩原健さんの著作『ガザ、戦下の人道医療援助』にパレスチナ、ガザについて実に分かりやすく、しかも大事なところを端折らないで説明してあったので、ここに紹介しよう。(以下P18~22)
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僕がここで記すパレスチナという地域は正確な境界を明示するものではないが、地中海東部の地域の一部である。そしてその地域の中には、少なくとも、イスラエルの大半とガザ地区(地中海沿岸)とヨルダン川西岸地区(ヨルダン川の西側)のパレスチナ自治区が含まれている。この地域は、人類がこの世に出現してから、さまざまな民族、宗教・宗派、統治者が、時に入れ替わり、時に混在・対立し、時に共存してきた。王国の勃興と衰退が繰り返されてきた地域でもある。
その長い歴史の中で、欧米列強が領土、植民地拡大のために海外に乗り出し、一方オスマン帝国が弱体化し始めた一九世紀後半後は、現在のパレスチナ問題につながる注目すべきひとつの時代だったと言えるだろう。
ヨーロッパでは、迫害されていたユダヤ人の間で強い民族意識が生まれ、民族国家建設を目指す思想と運動であるシオニズムが盛んになった。一方、パレスチナ地域では当時、同地域を支配していたオスマン帝国の弱体化とともにアラブ人の民族意識と独立を求める機運が高まっていた。
そして、第一次世界大戦が勃発、アラブ人に対してはオスマン帝国戦線への協力と引き換えにアラブ人の独立承認を約束した。オスマン帝国崩壊後、パレスチナの地はイギリスの委任統治領になり、同地域では、一九二〇年代から、イギリスの“約束”に基づき、ユダヤ人の大規模な流入が続いた。多くは欧州での迫害を逃れてきた人びとだった。それにより、パレスチナの地は、ユダヤ人と先住民であるアラブ人の暴力による対立の場となり、さらには、アラブ人が独立を求めてイギリスの支配に抵抗する場にもなった。
その後、第二次世界大戦でのホロコーストを経て、一九四七年、イギリスはパレスチナ問題を国連へ持ち込んだ。その時点で、パレスチナの人口およそ二三〇万人のうち、三分の一が古くから住んでいたアラブ人で、三分の一が新規のユダヤ人であった。だが、国連のパレスチナ分割決議は、アラブ系住民に四三%、ユダヤ系住民に五七%の土地を与えるというものだった。同案がパレスチナのアラブ人、アラブ諸国とその他の国によって拒否され、アラブ・ユダヤ間の緊張が高まる中、イギリスは一方的に撤退する。
一九四八年にユダヤ側がイスラエル建国を宣言し、第一次中東戦争(一九四八〜四九年)が勃発し、パレスチナ地域の大部分をイスラエルが占領。およそ七五万人(出典:国連難民センター)が難民となり、ガザ地区については、停戦時エジプト軍が占領していたことから、エジプトにより実効支配することになった。
一九四九年、イスラエルが国連の五九番目の加盟国として承認されると、ヨーロッパとアラブ諸国からのアラブ系住民とユダヤ系住民との対立は一層激しくなった。パレスチナ問題の解決は見られないまま、第二次、第三次、第四次中東戦争が起きた。
ガザ地区は第二次中東戦争終了から一九年間、エジプトにより実効支配されるが、第三次中東戦争でイスラエルはシナイ半島とガザ地区、東エルサレムを含むヨルダン川の西岸、シリアのゴラン高原の大半を占領し、入植地をつくり続けた。
その後も占領状態が解決されることはなく、占領地では土地を奪われたパレスチナ人に対する過酷な抑圧と弾圧が続いた。一九八七年、パレスチナ人は、弾圧するイスラエル軍に対し、石を投げるなど非武装で抵抗する第一次インティファーダ(大衆蜂起)を行い、その様子は世界中で報道された。そして、同年、民族解放組織「イスラム抵抗運動(ハマス)」が誕生する。
一九九三年、イスラエルのラビン首相と、パレスチナ解放機構(PLO)のアラファト議長がオスロ合意に調印し、イスラエルが占領した土地の一部でパレスチナ人による暫定自治が開始されることになった。しかし、合意から二年後の九五年、ラビン首相は和平反対のユダヤ人により暗殺され、翌九六年、ネタニヤフがイスラエルの首相に就任、同氏にとって初めての政権を担う(注:現在は二〇二三年からの第六次政権)。
イスラエルによるヨルダン川西岸、ガザ地区への入植地建設の動きが加速する中、二〇〇〇年、第二次インティファーダが勃発、自爆テロなども行われた。
二〇〇五年、イスラエルはガザ地区から軍と入植者を撤退させたが、上空と境界線、ならびに海岸線を支配下に置き、ガザは「天井のない監獄」と言われる状態になった。そして二〇〇六年、民主的かつ平和的に行われたパレスチナ立法評議会(PLC: Palestinian Legislative Council)選挙ではハマスが第一党になった。しかし、それまで自治政府与党であったファタハを交渉相手にしてきた欧米各国とイスラエルはそれを認めなかった。ハマスはファタハとの挙国一致内閣を発足させたものの、両者間の対立は武力衝突にまで発展。二〇〇七年、ハマスがガザ地区を制圧し統治することになると、イスラエルがガザ地区を封鎖した。一方、ヨルダン川西岸では、イスラエルによる入植が今も続いている。
なお、一九四九年の国際連合総会では「国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA: United Nations Relief and Works Agency for Palestine Refugees in the Near East)」が設置された。現在、五五〇万人のパレスチナ難民がヨルダン、レバノン、ガザ地区、シリア・アラブ共和国、それに東エルサレムを含む西岸に住んでUNRWAの援助を受けている。
しかし、イスラエルは二〇二三年一〇月のハマスによる越境攻撃にUNRWA職員が関与していたと主張、UNRWAの活動に反対した。二〇二四年四月、イスラエルの国会において、同国内でのUNRWAの活動を禁止する法案が可決、二〇二五年三月二〇日に施行されている。
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