遅まきながら、映画『黒川の女たち』を観てきた。もう上映館が少なくなり、川崎まで出かけた。
「80年前の戦時下、国策のもと実施された満蒙開拓により、中国はるか満洲の地に渡った開拓団。日本の敗戦が色濃くなる中、突如としてソ連軍が満洲に侵攻した。守ってくれるはずの関東軍の姿もなく満蒙開拓団は過酷な状況に追い込まれ、集団自決を選択した開拓団もあれば、逃げ続けた末に息絶えた人も多かった。そんな中、岐阜県から渡った黒川開拓団の人々は生きて日本に帰るために、敵であるソ連軍に助けを求めた。しかしその見返りは、数えで18歳以上の女性たちによる接待だった。接待の意味すらわからないまま、女性たちは性の相手として差し出されたのだ。帰国後、女性たちを待っていたのは労いではなく、差別と偏見の目。節操のない誹謗中傷。同情から口を塞ぐ村の人々。込み上げる怒りと恐怖を抑え、身をひそめる女性たち。青春の時を過ごすはずだった行先は、多くの犠牲を出し今はどこにも存在しない国。身も心も傷を負った女性たちの声はかき消され、この事実は長年伏せられてきた。だが、黒川の女性たちは手を携えた。
したこと、されたこと、みてきたこと。幾重にも重なる加害の事実と、犠牲の史実を封印させないために―。」(HPの説明より)
私は、2019年に松原文枝監督が取材したときは、8人の女性のうち3人だけが顔出しに応じたのが、今年は7人が顔を晒して証言するようになったことに感動した。

勇気をもって、カミングアウトした人を取材して報じ、それで関心を持った人々が彼女らから学ぼうと動き、それに励まされて別の女性が証言をはじめ、それをまたメディアが伝え・・という循環がまわりの人々やコミュニティを「ちゃんと歴史に向き合おう」という姿勢に変えていった。
報道が世直しに貢献できる一つのすぐれた実例を示しているように私には思えたのである。
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「拉致と国際法」の連載をちょっとお休みして、仏教の話。
私の師である岡野守也さんが、原始仏教から中国禅への発展について論じている文章がとても勉強になったので、ここで紹介したい。
近年、テラヴァーダ仏教(上座部、いわゆる小乗仏教)が日本にも入ってきて、これが「本当の仏教」で、大乗は仏教にあらず、という議論が出てきている。「本当の仏教」とは、また仏教に「発展」はないのか、などについても触れられている。
以下は、道元の『正法眼蔵』「家常」巻の講義のはじめに岡野先生が語られた部分である。
お茶を飲み、ご飯を食べるという日常のことが、実はそれこそ仏法の実践であることを語った巻で、まさに、「味わう」という感じの学びになるでしょう。
早速、講義を始めたいと思います。原文を朗読して解説、講義をするという形で行きます。
原文
おほよそ仏祖(ぶっそ)の屋裡(おくり)には、茶飯(さはん)これ家常(かじょう)なり。この茶飯(さはん)の義、ひさしくつたはれて而今(にこん)の現成(げんじょう)なり。このゆゑに、仏祖茶飯の活計きたれるなり
現代語訳
およそ仏祖の家においては、茶を喫し飯を食べることが日常の家風である。この日常茶飯のしきたりは、永く伝えられて今この時に実現している。それゆえに、仏祖は、この日常茶飯を活用してきたのである。
インドの仏教が、ふつうの生活を離れて僧院の中で特殊な生活をするのに対して、中国の禅宗は、それをもう一回日常生活に戻してくるところに特徴があります。
ここで道元は、僧院での生活にあっても、まさにご飯を食べてお茶を飲むという日常の行為の中に、真理・仏法が現れると捉えています。
何か日常生活を離れたところに、特殊な覚りの世界・真理の世界があるのではなくて、日常生活の真っただ中に真理の世界がある。あるいはその「ある」ということに目覚め、真理に即して日常を生きるのだと。
そういう捉え方が、中国の仏教、特に禅の、インドの仏教から変わってきたところだといえます。そして私の理解の仕方では、ある意味で進化したというか、あるいはレベルアップしたところであると思います。
日常の世界と真理の世界は別のことであるので、出家し俗人の日常の世界を離れて生活することによって、涅槃・解脱・覚りと呼ばれる世界に入る―そういう基本的なインド仏教の建前をある意味で超えていく傾向が、『維摩経』や般若経典にはすでに現われていたわけです。しかしそれを、ご飯を食べてお茶を飲むことの中にこそ真理がある、その中に真理を見出す、そういう行為の中に真理の現われとしての自らを生きる、というところまで徹底・深化したのは、やはり中国禅からだと私は理解しています。
ところで、仏教学の世界では、最近二十年くらいでしょうか、原始仏教の研究をされて、それとインド大乗仏教、中国大乗仏教、日本大乗仏教を比較しながら、「基本的に阿含経典に現われているような原始仏教こそが仏教なのであって、大乗仏教は本質的には仏教ではないし、ましてや中国仏教や日本仏教は本来の仏教ではない」と言い始めた仏教学者がいらして、その後何人もの方がそうしたことを言われるようになりました。
それから、東南アジアのテーラーヴァーダ仏教が日本に入ってきて、かなり影響力を持つようになってきました。要するに、テーラーヴァーダ仏教こそが釈尊の仏教の原形を完全にとどめているのであって、そこから変わっていった大乗仏教は、仏教としてはいわば歪曲、あるいは極端な言い方をすると仏教ではないと。
そのようなことまで言う方がいらっしゃるわけですが、しかしいろいろな宗教の歴史を見ても、教祖の原形がそのまま保たれていくことは、基本的にはありません。
それにテーラーヴァーダ仏教は、自分たちが完全な原形をとどめていると主張していますけれども、仏教文献学的に言うと、アーガマ—阿含経典自体がそもそも編集されたもので、しかも現在のような形に編集されるには、たぶん百年や二百年はかかっていると考えられます。阿含経典の一語一句がゴータマ・ブッダの言葉をそのまま伝えているというのは、歴史学・文献学的には成り立たない話なのです。
にもかかわらず、ある一つの派の中で、わりに原形をとどめているだろうと思われるものが、「完璧に原形をとどめていて、しかも絶対に正しい」とされ、この絶対に正しい仏教以外の、後の変化・発展は歪曲であって―これは解釈次第なのですが―とにかく「我々の保ってきた原形以外は、仏教にあらず」とされています。
もともとテーラーヴァーダには、そういう主張を強くする方が多かったのですが、日本の仏教学者の中にもそうしたことを言う方が現われてきたりして、なんと表現したらいいのでしょうか、仏教ジャーナリズムの世界がかなり混乱してきていると思います。
そして素人のみなさんは、その混乱の背後にあるものをあまりよく知らないままに、書店に出回る仏教のさまざまな本を見て、「テーラーヴァーダ仏教こそがゴータマ・ブッダの本来をそのまま伝えているのであって、日本仏教あるいは大乗仏教はまちがっているのだ」と思ってしまいます。
影響力のある方が、いちおう原形に近くはあっても、「自分たちの経典こそが原形そのままで、しかも絶対に正しく、大乗経典・大乗仏教はまちがっている」と言うのは、あまりにも公平性を欠いた発言で、しかも仏教を学ぶ一般の方に混乱を与えてしまうので、はなはだよろしくないと思っています。
公式に反論することは従来避けてきていますが、どこかで一回、きちんと反論をしなければいけないという思いもあります。いわば受益者であるみなさんに対して、この混乱を放置しているのはよくないからです。しかも、大乗仏教は原始仏教をベースにしながら深く大きく発展していると私は評価しているので、それに対して「原形ではないからまちがっている」といった言い方を、しかも完全に原形をとどめているわけでもない派の方たちがするのは、きわめて建設的ではないと思っているからです。だから、そのことは少し言わなければいけないかな、と思いもしているのです。しかしながら「物言えば唇寒し」なので、日本風に「まあまあ、仲よくしましょうよ」とやっておくほうがいいのか、どうなのでしょうね。
(つづく)