寺越武志さんの近影が届いた。
1963年に能登半島沖へ漁に出た3人が行方不明となり、北朝鮮に拉致された疑いが指摘されている「寺越事件」で、同国で生存が確認されている寺越武志さん(75)の写真と動画が10月22日、家族の元に届いた。金沢市内に住む妹(71)によると、近影を確認できたのは、2018年に母の友枝さんが北朝鮮を訪れたときの写真以来約6年ぶり。「やせて疲れた顔をしとる」と話す。武志さんは白髪が増え、やせたように見える。
動画では、武志さんが「私は本当に、生活費、受け取りました」と話す。妹は9月末、武志さんへの生活費を知人に託しており、写真と動画が届いたという。
武志さんに会うため、訪朝を繰り返してきた友枝さんは今年2月25日に92歳で亡くなった。妹は「死に目に会えとらんからね。親に苦労や心配をかけたことを考えたら心も痛いと思う」と兄の胸中をおもんぱかる。(朝日新聞)
これは「封印された拉致事件」である。
寺越友枝さんは、一時期、「家族会」に入り、武志さんの拉致認定を政府に求めたこともあった。私たちジン・ネットは、武志さんの戸籍を復活させる手続きを手伝ったりもして友枝さんを支援した。しかし、武志さんから「母ちゃん、やめてくれ」と言われ、友枝さんは運動から抜けて、北朝鮮に息子との面会に通うようになった。
このケースは100%拉致なのだが、日朝間では拉致ではないとして扱われている。北朝鮮の「成功例」であり、2002年に5人の拉致被害者の生存を認め、日本に「一時帰国」を認めた時点では、北朝鮮は、この寺越ケースのように、5人の拉致被害者は北朝鮮公民として留まり、日本から親族が通う形をめざしていた。
漁に出た船が嵐にあって漂流していたところを北朝鮮の船に救助され、その後は共和国の暖かい懐に抱かれて幸せに暮らしてきた。武志さんはこの作り話のうえで、最高指導者に感謝しながら生きざるを得ないのである。この人生を読者はどう思うだろうか。
・・・・・・・・
前回のつづき。
辛:私が捕まったのも、私と数年間一緒にいた人間(のせいだ)。その人に店を構えさせてやった。その人は働くためには店が必要だと言った。どんな店が必要かと尋ねたらキャバレー、ナイトクラブを構えさせてくれと言った。
それでどうするかと尋ねたら、「後で南に行ったり来たりする人を相手にする韓国人ナイトクラブにする」と言った。だから、身体を惜しまず、・・・私が煙草を吸うかね?酒を飲むかね?身体を惜しまず金を稼ぎ、節約し、お金をくれって言えないから店を構えさせ、家族を食べさせ、子どもたちを学校にまで通わせてやったのに、その人間は私を売り渡したじゃないか。
(注)朴さんは高から「辛が済州島出身の韓国人女性に、韓国クラブを開かせ、その女性との間に子どもをもうけた」という話を聞いた。辛光洙が「私を売った」というのはその女性を指すと思われる。これとは別に、辛光洙は朴さんの妹が五反田でやっていた韓国クラブで1980年から会計係として働きマネジャーにまでなったことがある。なお、辛とともに韓国で逮捕された方元正も、池袋を拠点に韓国クラブ(店の住所は原敕晁名義の免許証にある「豊島区東池袋」に隣接していた)を経営していた。「南に行ったり来たりする人を相手にする」韓国クラブが対南工作に利用されていたのだろう。
朴:私が売ったのですか。
辛:私は日本に知ってる人が多い。私を売り渡した人間がいるかと言えば…(お前は)私の本名も知らなかったじゃないか。本名を知ったらそれで終えなくちゃ。訪ねてくるなら、密かにしなきゃ。世の中すべての新聞、ラジオに出て。私は外交官じゃないだろう。
朴:私が売り渡したのではありません。
辛:売り渡したと同じだ。安企部に売り渡した人間は別にいる。言わないけど、分かる。安企部に売り渡した人間は、隠れて別途に活動しており、(お前は)どうみても安企部につながっている。
朴:違います。
辛:とにかく、私を売り渡した人間や、朝鮮民主主義人民共和国に害を与える本を書いて、『アエラ』にある本を書いたと紹介し、『アエラ』の記者を連れてきて。(本を)出しても誰も信じないよ。主人公は辛光洙なのに「辛光洙が認めた言葉は一言もないから信頼性がない」。それを得るために刑務所に来たのだ。
私が生きているから、・・私は72歳だが、生きていてどうする。わが朝鮮は哀れな民族だ。二つに分かれ、日本の奴らにくっつき、アメリカの奴らにくっつき、いったい何だ。私がそうするんだったら、出て来なかった(?)。
私は留学までし、大学まで出たので、科学を研究し、科学者としていくらでも働ける。命とすべてを犠牲にし、南北統一のために出てきたのに、なぜ私はそうするか?日本で生まれ「朝鮮人」呼ばわりされ、いじめられたとき、私は何と言ったか?父は3歳のときに亡くなり、母のスカートの裾をつかみ、言葉も「オンマ(お母さん)」という言葉しか知らなかった。同じ人間として生まれ、鼻の高さ、耳、背丈も同じだから、日本人、韓国人の区別はつかない。なのになんでお母さんは朝鮮人に生まれ、僕が「朝鮮人」という言葉を聞き続けなければならないのか。なぜお母さんは私を朝鮮人につくったのか。
(注)辛光洙は1929年(昭和4年)に静岡県現・湖西市で、五男二女の五男で末っ子として生まれた。日本名は「立山富蔵」(たてやまとみぞう)。父は土木作業員で早くに亡くなり、母は女手一つで7人の子を育てた。
兵庫県尼崎市へ移住して立花第一尋常小学校に入学。小学3年時に富山県高岡市へ移り高岡市立下関国民学校に転校。国民学校から高等国民学校に進み、卒業後の1943年に高岡工芸学校(現在の高岡工芸高校)機械科に入学。
高岡の国民学校時代は成績抜群の優等生で面倒見がよく、仲間に慕われていたという。ある同級生は「梅干ししか弁当に入ってないおれに、立山が卵焼きを『食え』と分けてくれた」ことを懐かしそうに回顧していた。経済的には比較的余裕があったようで、工芸学校まで進学している。
日本が敗戦すると45年秋、一家で日本を去って慶尚北道の浦項中学校に編入。50年に朝鮮戦争の勃発で北朝鮮義勇軍に志願入隊して戦闘に参加。北朝鮮に渡ると52年に朝鮮労働党に入党し53年に勲功メダルを授与されて留学というエリートコースを歩む。
54年にルーマニアに留学しブカレスト工科大学予科へ入学、60年に機械工学部を卒業して北朝鮮に帰国。日本語、英語、朝鮮語、ロシア語の4か国語を話す。エンジニアとして朝鮮科学院で研究生活を送り、71年に朝鮮労働党の命令で工作員となった。
妻の李元求(リ・ウォング)との間に一男三女をもうけた。なお辛光洙の兄によると、この妻は金正日の親戚だという。
辛:その後次第に覚醒し、・・・ダメだ。誰よりも早く帰国して。出てきてみたらこうなった。私も、悪いやつで「計算高く日本で楽に商売をしながら暮らそう」と考えたのならば、出てこなければいい。私が出てこなければ、うちの家族も出てこない。在日同胞として暮らせた。私は末っ子で、母と兄弟を説得する自信がなくて、私が先に出てきた。出て、このような運動をしている。
このような地下事業をするためには偽装をしなければいけない。隠さなきゃいけない。ホテルにも入ったりしたが、ホテルに入り難くなって後にあちこち回るようになった。私の性格を知り、私を助けたいと思うのなら、そのようなことはしちゃいけない。(お前の)お兄さんが(境遇が)悪くなっても、私と関係ないでしょ。
なぜ私の名前を出して朝鮮民主主義人民共和国・・また、私に忠告しようとしても・・・私が(お前のお兄さんを)殺したの?死んだのか、死んでないのか、私が確認してみよう。
朴:死にました。
(注)辛光洙のこれほど詳細な独白はおそらく他にはないだろう。判決文などにも書かれていない活動のディテールが語られるとともに、朝鮮人としての、また工作員としての人生観、社会観も吐露されている。朴さんを「民族反逆者」と罵りながらも、ながく夫婦同然の暮らしをした彼女の前では、抑えていた鬱屈を吐き出してしまったのか。
(つづく)