北朝鮮工作員の辛光洙(シン・グァンス)は、1978年に地村保志さんと現在妻の富貴恵さんを拉致、1980年に原敕晁を拉致して成り済まし、「原敕晁」名義の旅券で韓国に入国して工作活動中の85年に韓国で国家保安法、反共法違反容疑で逮捕された。
いったんは転向を表明し自供したが、死刑判決が出ると転向を撤回。88年末に無期懲役に減刑され、全州(チョンジュ)刑務所に収監された。
99年12月31日に金大中大統領によるミレニアム恩赦で釈放され、釈放後はソウルにあるキリスト教系団体の「良心囚後援会」が運営する「出会いの家」で他の元政治犯と共同生活を送った。2000年9月2日、「非転向長期囚」として北朝鮮に送還された。北朝鮮では、英雄として処遇され、辛の記念切手が販売されている。
「ジン・ネット」時代、私たちは辛光洙の取材を何度も試みた。
全州刑務所にも、釈放後の「出会いの家」にも取材班を送り、北朝鮮に送還されたときも取材した。また原敕晁さん拉致の共犯、金吉旭(キム・キルウク)を済州島に3回直撃を試みている。1997年には日本海に面した注文津(チュムンジン)という港町に辛光洙の兄、辛チャンスさんを訪ねている。
私たちはこれらの取材の多くを朴春仙(パク・チュンソン)さんという在日女性とともに行った。
彼女は1973年、「坂本」と名乗る辛光洙と知り合い、彼がスパイであることを知らずに、夫婦同然の同居生活を送ることになる。そして辛光洙が85年に韓国で逮捕された直後、朴さんの兄が北朝鮮で射殺されるという悲劇に見舞われたのである。
ちょっと入り組んだ話だが、ざっと説明すると—1973年から同居をはじめた辛光洙は200万円を生活費にと朴さんに渡し76年に数年留守にすると家を出て北朝鮮に戻っている。朴さんは200万円を元手に利殖をして400万円にまで増やすが、これが焦げ付いて回収不能になった。
しばらくして坂本の上司らしい男が接触してきて預けていた金を請求した。「共和国(北朝鮮)にいる家族がどうなってもいいのか」とすごまれ、無理して100万円を作って渡した。朴さんには「帰国事業」で北朝鮮に渡った兄弟姉妹が4人いた。。79年、北朝鮮の「盧」という男から手紙が届く。坂本の筆跡だった。預けたお金を横浜のある人に渡してほしいという。朴さんは当時一文無しで、平壌にいる最も親しく尊敬する兄の朴安復(パク・アンボク)に手紙を出し、「盧」の住所を訪ねてお金を返せない事情を説明してくれと頼んだ。兄からは留守で会えなかったとの返事が来た。直後から兄は尾行され、しばらくして音信不通に。政治犯収容所に送られたことが後でわかった。「盧」の住所は普通の人が訪ねてよい場所ではなかったのだ。
80年末、「坂本」は再び朴さんの元へ現れたが、そのときは「坂本」から「原敕晁」に名前が変わっていた。後に、85年の辛光洙の逮捕発表の2カ月後に朴さんの兄、安復が「スパイ」として銃殺されたことが分かり、朴さんは悲嘆にくれる。安復が韓国当局に通報して辛光洙が逮捕されたとの濡れ衣を着せられたのではと推測される。
朴さんは、同居して優しかったころの辛光洙しか知らない。会って話をしたい、とくに兄が殺されることになった事情を質したいとの思いで、全州刑務所には4回も面会に行ったが、「そんな女は知らない」と面会を拒絶され、差し入れも返された。
釈放されてソウルの「出会いの家」にいる辛光洙を私たちは何度か取材を試みた。「出会いの家」から外に出るタイミングを待って直撃するが支援者に阻まれたり、辛に逃げられたりしてうまくいかなかった。
2000年1月9日、朴春仙さんとジン・ネット取材班(D千田真)が「出会いの家」のベルを鳴らした。辛光洙は留守だったが、「日本で辛光洙先生を世話した人」と朴さんを紹介すると事情を知らない同居人が中に通してくれ、辛光洙の帰りを待った。帰ってきた辛光洙は朴さんと会うのをいやがったが、同居人が説得して朴さんと二人きりならとの条件で面会がかなった。私たちは隠しカメラで二人の会話を撮影することに成功した。今となっては、辛光洙の肉声が収められた貴重な資料である。
かつてジン・ネットのウェブサイトには二人の会話のテープ起こしの翻訳を資料として掲載していたのだが、今は見ることができない。辛光洙については今も関心が高く、問い合わせもあるので、本ブログで公開することにした。
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18年ぶりの再会だった。
「先生、しばらく」と辛光洙のいる部屋に入っていった朴さんを、辛光洙は恐ろしい顔でにらみつけ、いきなり罵りはじめた。
「わが朝鮮民主主義人民共和国をけなし、南北統一を妨害し、日本、米国の奴らの手先になった民族反逆者!」
朴さんは手記『北朝鮮よ、銃殺された兄をかえせ!』(ザ・マサダ刊)を出版し、兄を殺した北朝鮮を糾弾するとともに、スパイ辛光洙との同棲生活を公表していた。辛光洙はこれに激しく怒っていたのだ。(画像はNNNドキュメント2000年5月7日放送より)
なお、会話はときどき日本語でのやりとりになるが、ここでは朝鮮語、日本語区別せずに記す。
朴:先生、ごくろうさまと言おうとしているのに、なんでそういう態度をとるの?
辛:『アエラ』に出てるのを見たよ。わが朝鮮民主主義人民共和国をけなし、全世界に雑誌を出し、朝鮮民主主義人民共和国に罪を犯しておいて。その本を書かなかったかね?
(注)朴さんが最初に辛との関係を明らかにしたのは雑誌『サピオ』だった。
辛:『アエラ』に出ているのを見たよ。「北朝鮮がお兄さんを殺した」と・・。
『アエラ』は朝日新聞の週刊誌だよ。全州(チョンジュ)刑務所に『アエラ』の記者と一緒に来て、私に会おうとしたが、私が会わずにいたら、全州刑務所だけ撮って日本に行ってドキュメンタリーの映画を作って韓国に輸出し・・・そんなことをしたでしょう。
(注)朴さんは、全州刑務所に収監されている辛に4回会いに行った。面会はかなわなかったがジン・ネットは朴さんに同行取材している。テレビ朝日の番組用の取材だったので、辛はこれを朝日新聞や『アエラ』の取材と誤解しているようだ。
辛:全州刑務所に来て、私が最後まで会わずにいたら、その次に、お金を取り戻さなくちゃいけないので委任状を書いてくれって言って。
朴:私そんなことしてません。何を言ってるんですか。そんな必要はありません。
辛:ずっと日本の『アエラ』が来て、警視庁、産経の記者が来て。ソウルから段ボールの包みが刑務所に来たけど、開けずに返送した。ソウルの名前になっていた。私を擁護し考えてくれる人は、一人もやってこないよ。わが朝鮮民主主義人民共和国をけなし、南北統一を妨害し、日本・米国の奴等の手先になり、そんな文章を書いた人がなぜ私を尋ねて来るんだ。南北統一を望み、わが朝鮮人を思う人なら、訪ねて来られないよ。そのような人は一人も訪ねて来なかった。
正直言って、私が日本にいるときは(私にかかわった)多くの日本人がいた。みな息を潜めて生きている。私がその家に行ってご飯も食べ、寝、お金を得た人は、じっとしている。むしろ、私が預けておいたお金もみな使い、預けたお金を取り戻そうと私に委任状を書いてくれって言って。お金を取り戻そうと、その人の娘まで連れてきて。覚えてないかね。
朴:私そんなことしていません。
辛:何を言う。
朴:高さんは8月に亡くなりました。
辛:高さんじゃなくて。羅さんが使ったお金を私が他の人に預けた。するとお前(朴さんのこと)は、その人の娘を連れて、お金を取り戻すために私の委任状が必要だと言って(訪ねて来た)。そのお姉さんが亡くなり、そのお姉さんの娘をつれてきたけど。その委任状は私がお姉さんに渡してきた。
(注)「高」は朴さんの兄の朴安復さんの友人で、辛光洙を朴さんに引き合わせた。「羅」は高の友人で、辛との間で金のトラブル(辛が預けた工作資金を使い込むなど)があった。
朴:そのお姉さんは亡くなりました。
辛:そのお姉さんの娘を連れてきて、そのお姐さんが持っているお金を取り戻すために、あっちにいる私のお金を使った人が羅さんがお金を渡さないみたいだ。だから、委任状を書いてくれった私にメモを送ったじゃないですか。私が接見、面会に出ないから。私がそのメモを破り捨てました。委任状も何もいらない。私は会わないと。
なぜ、私を訪ね歩いている。私を本当に思うのなら、探し回ったりしちゃいけない。私がどんな人間か知ってるでしょ。私が正式な外交官かね?正式な貿易商かね?私という人はできるだけ隠してあげなければならない人なのに、私という人を「知っていました」と新聞に公開し、「お兄さんが帰国船に乗って行ったのに、結局スパイに関係して銃殺された」と書くなんて。(お前に)そんな文章を書く実力もないでしょ。そのような文学的な大きい本を。本の名前は覚えてないけど、「北で同じ同胞をこんなにして殺した」と言って。
私の話が何かといえば、「赤十字を通じて帰国同胞として行ったけど、行って幸せに暮らしていると言って面会に行ってみたら、お兄さんは死んで、お兄さんの家族はみんな政治犯収容所にいる」という内容が書かれている。このくらいの大きさの『アエラ』という有名な週刊誌だよ。その雑誌の片側に新刊図書に関する紹介だといって出てた。この雑誌を通して知ったよ。その本自体は知らなかったが。
その後、私に送られてきた小包はみな返送し、また郵便で来た本は見てもいない。私がただ見たのは全州刑務所でA子姉さんが亡くなってその娘を連れてきたが、そのお金を取り返すためには私の委任状がいるから書いてくれと言われ、破り捨てたことしかない。
(注)A子姉さんは羅と辛の共通の知人。辛は羅に預けていた工作資金の回収をA子姉さんに依頼していたことがうかがえる。工作ネットワークの中でもお金の使い込みなどトラブルが絶えないようだ。
辛:とにかく、私を思うのならそのような行動をしてはいけない。私を思うのなら、私のことを考えなくてはいけない。あつかましいよ。何でそういうことをするんだ。私が生きているから・・。
お前(朴さん)個人がそのようなことをしているのではないと、私は考えている。後ろで誰かが操っている。誰が操っているか。ここの安企部、日本の警視庁が操っている。また、操られるなら、私の個人問題ではないですか。私の問題を引き続き取り上げるのならば、私は死ぬしかない。だから死ぬ覚悟をしましたよ。
刑務所で死んだら法務省長官、刑務所長の首が飛び、このことが新聞に載れば国際的に日朝間の国交関係になり、問題が大きくなる。だから夜には私の部屋の前で人々が監視していたし・・。
なぜ私がここに来たと思う。臨時的に行き場所がなくてここに来たのに、移らなければならん。移るために家を見に行ってきたのに、引っ越しをしたら誰にもしゃべれない。私について知っている人は数人しかいない。朝、ドアを開けてくれた人も、いまドアを開けてくれた人も知らない。知らないから(朴さんにドアを)開けてくれたんだが、私はもう誰も信じられない。
(つづく)