寺越友枝さんの逝去によせて~「封印された拉致」と母の苦悩

 寺越友枝さんが2月25日、92歳で亡くなった。

 能登半島沖で行方不明となり、その後北朝鮮で生存が判明した石川県志賀町出身の寺越武志さん(74)の母親である。友枝さんは1987年から訪朝して武志さんとの面会を繰り返してきた。

寺越友枝さん(右)と武志さん(中日新聞より)

 寺越武志さんは実際は北朝鮮に拉致されたのだが、自分が拉致されたことは否定したままで、政府も武志さんを拉致被害者とは認めていない。これは「封印された拉致事件であり、北朝鮮による拉致を考えるうえできわめて重要な出来事だった。

 事件が起きたのは1963年5月。

 寺越武志さん(当時13歳)は叔父の寺越昭二さん(同36歳)、外雄さん(同24歳)とともに「清丸」という小さな漁船で漁に出かけ帰ってこなかった

寺越武志さん(以下写真は、寺越友恵『北朝鮮にいる息子よ わが胸に帰れ』(徳間書店)より)

 漁といっても、夜、岸から数百メートルのところに刺し網をして、いつもなら朝戻ってくる。その夜は風のないベタなぎで遭難は考えられない。捜索すると、数キロさきに空っぽの船だけが漂っていた。船の前方に何かにぶつかったような大きな破損個所があった。真相が分からないまま3人の葬式も済ませた。武志さんは中学2年でわずか13歳。横田めぐみさんが失踪した歳と同じである。

清丸の舳先には大きな破損個所があった

遺体は上がらなかったが葬儀を済ませた(2列目中央が友枝さん)

 ところがそれから24年が経った87年、突然、外雄さんから武志さんと北朝鮮で元気でいるとの手紙が届く。昭二さんはすでに亡くなり、外雄さんと武志さんは亀城(クソン)という地方で北朝鮮人と結婚して家族を持ち、旋盤工として働きながら暮らしているという。武志さんからも手紙が届き、その内容から本人に間違いないことが分かる。

武志さんからの手紙。「昔、バスが組合の前で停まり、そこを降りて、・・道を登ります。一軒家がありましたが、その前に祖母の田んぼがありました。そこに柿の木が四本、びわが一本ありました。・・」と本人であることを証明しようとしている。

 武志さんの母、友枝さんは、当時の社会党の代議士のつてで北朝鮮にわたり、武志さんと劇的な再会をとげる。そして、63年の失踪事件は遭難していた武志さんたちを通りかかった北朝鮮の船が救助したという「美談」に、母子の再会は北朝鮮の配慮のもとでの感動話とされた。友枝さんは救助話に半信半疑ながらも、北朝鮮当局に感謝せざるをえなかった。

美談が演出された母子の再会

 97年2月、ジン・ネット取材班は横田めぐみさんの目撃証言を報じ、これも一つのきっかけになって北朝鮮による拉致疑惑が大きな社会問題に浮上した。この証言は、元北朝鮮工作員によるものだったが、実は彼のインタビューでは、別の拉致事件をも証言していた。

工作員養成所の教官から聞いた話です。工作船が日本に近づいたとき、小さい船がしつこく追いかけてきた。そこで、秘密がもれるのを恐れて、乗組員3人を拉致して、船は始末した。ノトという場所だった」

 その時私たちは「清丸事件」を全く知らなかったので、そんな拉致もあるのかと興味深く聞いただけだった。その後、「現代コリア研究所」の荒木和博さん(現・特定失踪者問題調査会代表)に会う機会があり、元工作員からこんな話を聞きましたよと「ノト」の事件を話した。荒木さんは強い関心を示した。荒木さんはちょうど「清丸事件」の検証を始めていたところだったのだ。そこで荒木さんの協力も得て、すぐにジン・ネットスタッフのNディレクターが石川県に飛び本格的な取材に入った。

 取材を始めると、これは美談などではなく、どこから見ても「拉致」であるのは明らかだった。最も可能性が高いのは「遭遇拉致」。つまり夜、日本の領海に侵入してきた工作船が「清丸」にぶつかった。事態発覚を恐れた乗組員たちが武志さんたちを拉致したと思われた。Nは武志さんの戸籍を復活させる手続きを支援するなど友枝さんを精神的にも支えつつ取材を深めていった。

 97年4月、荒木和博さんが5月初め発売の『正論』6月号に「封印された拉致事件」と題する記事を載せ、私たちは5月10日、テレビ朝日ザ・スクープ」で「清丸事件」を北朝鮮による拉致事件の一つとして放送した。

 これに対する北朝鮮側のリアクションは予想を超えた。北朝鮮はメディアを通じて、反動勢力の嘘と激しく反論したうえ、武志さん本人に拉致を否定する談話を発表させ、さらには武志さんを地方の旋盤工からいきなり平壌市職業総同盟副委員長という要職に出世させ、一家を平壌の高級幹部のみが棲む高層マンションに移したのだった。

 当時は、拉致だと日本で騒ぐと、拉致被害者が危害を加えられたりするのではないかと危惧する声があったが、私たちは武志さんの身の上に起きたことから、「むしろ日本側が拉致だと騒いだ方が、被害者たちは大事にされる」と反論したものだった。武志さんはその後、2002年に北朝鮮の訪日副団長として一時帰国を果たす。

 97年3月に横田めぐみさんの両親、滋さんや早紀江さんらが拉致被害者家族連絡会」を結成すると、寺越友枝さんはこれに加わり、一緒に活動した。ところが武志さんが友枝さんの言動に強く反対する。武志さんは北朝鮮に家族がおり、これからもそこで暮らしていかねばならない。日本に帰りたいとは言えず、ましてや「拉致」などと言えるはずがない。「おかあさん、後ろを振り返らないで、前だけを見ていこう」と武志さんに訴えられ、友枝さんは運動から手を引いた。

寺越友枝さんが書いた『北朝鮮にいる息子よ わが胸に帰れ』(徳間書店)。ここでは「拉致」と言えなくなった事情も率直に書かれている。この本の最後の「解説」は私が書いた。

 めぐみさんも武志さんも、13歳という若さで北朝鮮に拉致された。しかし、その後の運命は大きく異なり、めぐみさんがいまだ消息が分からないのに対して、武志さんは日本の家族と再会し、友枝さんは2018年まで66回も北朝鮮を訪れ武志さんやその家族と会ってきた。

 友枝さんの夫(武志さんの父)の寺越太左エ門さん(1921年生まれ)は01年7月に訪朝した際そのまま北朝鮮に留まり、武志さん一家と生活し08年1月、平壌市の武志さん宅にて86歳で死去している。本人、そして友枝さんら家族が拉致を否定した「清丸事件」は、政府認定の拉致事案にはいまも含まれていない。

 武志さんには金英浩(キムヨンホ)名の『人情の海』という自伝がある。武志さんが奴隷の言葉でどんなことを書かされたのか、関心のある方は邦訳がネットにあるので参照されたい。http://araki.way-nifty.com/araki/files/terakoshi.pdf
 
https://takase.hatenablog.jp/entry/20161115

 18年の最後の武志さんとの面会を、友枝さんはこう振り返っている。

「5年ぶりに武志に会ったら年老いて、頭も白髪になって、歯も傷んで。孫からハラボジ(おじいちゃん)と呼ばれとる。けど、日本に帰ってきて思い浮かぶのは、13歳のくりくり坊主頭の武志の姿や。武志がじいちゃんになっても、私にとってはいつまでも子どもやさかい。そんな武志が『お母さん、年をとりましたね。より愛おしいです』と言うんや。かわいくて、かわいくて、今度こそ子離れしようと思うとったが、できんかった」(女性自身より)
https://jisin.jp/domestic/1658956/

 内心では「拉致」だと確信しながらも、そのことを口にすることができずに、北朝鮮に頭を下げながら母子の交流を続けた友枝さん。まさに「封印された拉致」に翻弄された一生だったと思う。

 友枝さん、長いことほんとうにごくろうさまでした。ご冥福をお祈りします。