北朝鮮工作員、辛光洙(シン・グァンス)は原敕晁(ただあき)さんと地村武志さん・濱本富貴恵さんを拉致した実行犯である。
そのうち原敕晁さんについては、(韓国ではあるが)法廷で確定した唯一の拉致事件として事実関係が詳細に判明している。
工作船で北朝鮮と日本との往復を繰り返していた辛は、日本人の身分を獲得せよとの指令を受けた。工作機関の指導員は辛にこう指示したという。
「大都市の役所の戸籍担当職員を買収して、戸籍処理がなされないで生存者になっている死亡者の戸籍を入手」するか、「日雇い労働者、失業者のなかから戸籍を入手し、その対象者を北朝鮮に拉致」して「成り済ます」こと。
その対象者を物色するにあたっては、「日本人であること、年齢は45歳ないし50歳くらいの(辛と)似た年齢であること、独身者で一家親戚がいない身寄りのない者であること、旅券の発給を受けたことがない者であること」などの条件に留意する必要がある、と。このように別人に成り済ますことを警察用語で「背(はい)乗り」という。語感からして気味が悪い。
辛光洙は「背乗り」拉致にとりかかった。大阪朝鮮商工会の会長Aに、北朝鮮に「帰国」した二人の息子の写真と手紙を見せて拉致への協力を要請すると、同じ商工会の理事長Bが経営する中華料理店のコックである原さんが拉致対象者の候補に合っていた。拉致を実行するのは、辛光洙、Bそしてすでに辛の協力者になっていた元大阪朝鮮初級学校の校長、金吉旭(キム・キルウク)の3人と決めた。
1980年6月、中華料理店の店長である商工会理事長が原さんに、よい就職先を斡旋すると高級料亭に誘った。そこではAが架空の貿易会社社長、辛が専務、金吉旭が常務を演じ、「社長」のAは100万円を辛に預けて「これで旅行でもして数日後に別荘で会おう」と言って去った。3人は原さんに酒を飲ませて酔わせたうえ、夜行列車に乗せ、大分県の別府に一泊。翌日宮崎市に行き、酒宴で酔わせた原さんを青島海岸に散歩に誘った。原さんは待ち受けていた4人の工作員(戦闘員)によって工作船に乗せられ、辛光洙も同行して北朝鮮の南浦(ナンポ)港へと送られた。
北朝鮮の工作機関の施設で、辛光洙は原さんに成り済ますための学習に取り組む。本人の経歴などの身元事項を暗記することに加え、料理の訓練も受けた。5カ月後の80年11月に辛は宮崎県から密入国し、原さん名義でアパートを借り、戸籍抄本、国民健康保険証、免許証、旅券を取得し、「背乗り」は完成した。
北朝鮮が日本政府に提示した原敕晁さんにかんする説明(2002年9月以降)は以下である。
原敕晁 死亡
朝鮮名:パク・チョルス
入国の経緯:金もうけと歯科治療のため、海外行きを希望していたところ、工作員が本人の戸籍謄本を受け取る見返りとして、100万円と共和国への入国を希望した。これにより1980年6月17日、宮崎県青島海岸から連れてきた。
入国後の生活:1980年6月から1984年10月まで招待所で朝鮮語、現実研究、現実体験をしていた。1984年10月19日、田口八重子さんと結婚。子供はいない。
死亡の経緯:1986年7月19日、黄海北道麟山郡で、肝硬変により死亡。
墓:田口八重子さんと同じ所にあったが、1995年7月の豪雨によりダムが決壊し流された。
遺品:なし
その他:辛光洙の関与等については今後法的仕組みができたら提供する。
北朝鮮の説明がまったく信頼できないことは、すでに知られている。田口八重子さんとの結婚もありえない。原敕晁さんが「金もうけと歯科治療のため」に北朝鮮行きを希望したとは、どこから考え付いた嘘なのかと呆れる。ただここに「100万円」という金額が出てくるのにはちょっと引っかかるものがある。
なお、「死亡」した場所が黄海北道麟山郡で、田口八重子さんもこのあとすぐに「死亡」し、麟山郡に埋葬されたことになっている。また、鹿児島から拉致された市川修一さん、増元るみ子さんがやはりここ麟山郡の招待所で暮らし、墓も同地にあることになっている。北朝鮮の説明は全体としてウソなのだが、なぜ麟山郡という場所を出してくるのか、謎である。
・・・・・・・・
辛光洙と朴春仙(パクチュンソン)さんの会話 つづき
(注)朴春仙さんは雑誌や出版した手記で、「坂本」こと辛光洙との生活を記したが、その中には朴さんから見た辛の工作員(スパイ)としての姿が描かれている。例えば、
坂本は顔を晒すのを極端に嫌い、3年間同居したのに写真一枚残っていない。物干しにも出たがらず、洗濯物の取り込みは子どもにやらせた。朴さんは一緒にデパートに行ったこともない。外出はいつも夜で、家を出る前は朴さんに外をうかがわせ、帰宅前には必ず電話を入れて今家に誰がいるかと聞いた。
坂本は2階の部屋で深夜、よく机に向かってレシーバーでラジオを聞いていた。一度聞かせてくれたことがあったが、女性の声で朝鮮語の数字だけが読み上げられていく。坂本はそれを紙に書き取っていた。北朝鮮からラジオ電波を使って各地に潜伏している工作員に送ってくる暗号放送「A-3」放送である。
坂本はときどき朴さんを誘って富山県などの海岸に出かけることがあった。宮崎の海岸に行ったときは、大きなボストンバック二つを持っていた。中には腕時計やカメラ、計算機やラジオなどが入っていた。夕暮、青島海岸に行き、公園で朴さんを待たせて坂本は海辺の松林に入っていった。朴さんがのぞくと、坂本がしゃがんでレシーバーを耳に当てていた。林から出てくると坂本は朴さんに2時間後に出る列車の切符を渡し、先に帰らせた。上陸してくる工作員(戦闘員)との「接線」(コンタクト)だったと推測される。80年に原敕晁さんを拉致したのはこの海岸である。辛がよく使う接線ポイントだったのだろう。
辛光洙は、かつて辛が日本で協力者にした人々は今も黙ってくれているのに、なぜ朴さんは工作員としての行動を暴露したのかと非難する。
辛光洙:組織的に私の秘密を知っている人は一人も訪ねてこなかった。私が何をしたか、なぜ(お前は)全部しゃべるんだ。「汽車に乗ってどこまで一緒に案内してあげた」、そんなことが全部載っていた。『朝鮮日報』に全部出ていた。それは誰の口から出たんだ。誰も知らないのに。知っているのは当事者しか知らないのに。それは誰がしゃべったんだ。自分がそんなことをしたら、いくら厚かましくても訪ねてこられないはずだよ。人を売り渡して・・・。
朴春仙:訴えたりしてません。
辛:訴えた、訴えてない・・どっちにせよ、私が捕まる前に日本でした行動をいくつか知ってるでしょ、それをなぜ新聞に出し、雑誌に出すんだ。売ると同じことじゃないか。私が捕まったので話せばお金をもらえると思って・・・。
朴:お金をもらってません。
辛:お金をもらっていないのなら、徹底した日本の親日派だ。
朴:あ、そのことですか。私が先生が韓国に来て捕まったときに本当にびっくりしたんですよ。それでうちのオッパ(兄)が銃殺されたって聞いて、びっくりしたんですよ。それで、朝鮮労働党が「申し訳ありません。お金を二千万円持ってくれば、家族全部収容所に入っているので、それ助けるから二千万お金を持ってこい」って言うんですよ。それで、H子に借金をしてから、二千万出して、その時に朝鮮労働党の人が、「申し訳ありませんでした。惜しい人を」・・・って。家族が集団収容所に…9年間。
(注)H子は朴さんの妹で、6人の兄弟姉妹のなかで2人だけが日本に残った。H子は兄の安復(アンボク)が銃殺されたあと収容所送りになっていた兄の妻子を、北朝鮮当局者の要求に従って、二千万円を献金することで救出している。朴さんが、兄の消息を求めて北朝鮮に渡ったとき、労働党の人間が「惜しい人を・・・」と謝罪したという。
朴さんが北朝鮮を批判する立場になり手記を出版して以来、H子は朴さんと絶交している。
朴:先生、聞いてくださいよ。それで先生から預かったお金を妹の友だちに一カ月貸してくれって言ったから、貸したでしょ。そのお金がもらえなくなっちゃったんですよ。その人たちを探して、70万だけ返ってきて、まだ300万円もらってないんですよ。裁判も14年やったんですけど、…私はちょっと誤解したとこがあります。その400万円のお金を返さなかったから、オッパ(兄)に・・・。辛光洙さんに預かってるからって手紙を出したのが・・・。
先生のこと最初から判っていて面倒を見たのにオッパ(兄)を助けてくれへんかったが悔しかったんですよ。
(このあたりは、感情が激してほとんど日本語で話している)
辛:それと私と何の関係がありますか? そこに行って話さなきゃ・・・。それをなぜ日本人に話し、本を出したりしたんだ。それが捏造だ。お兄さんが逮捕され、それをする(釈放)にはお金が必要だなんて、言ったことがない。
朴:私が聞きました。
辛:私がなぜお金がないんだ。私はお金を…国を売った人にそのお金が・・・
日本のお金では、何千万程度じゃないんですよ、何億円という・・・。お金を私は持っていないが、朝鮮民主主義人民共和国で思い通り、大阪、福岡、東京を回りながら手にできるお金を、目黒で一緒にする人がどうこうしたというお金は受け取る考えはせず、羅の金も受け取る考えはせず・・・。
(注)「目黒で一緒に・・」 辛光洙と朴さんは東京都の目黒中町の一軒家を朴さんの日本名「新井春子」の名で借りて暮らしていた。辛が朴さんに預けたお金をめぐって自分には私利私欲はなかったと言いたいらしい。
「何千万」、「何億円という・・」 韓国での裁判記録によれば、辛光洙は北朝鮮工作機関から8万ドルを工作資金として受け取っていたうえ、7千万円もの金を在日朝鮮人の協力者に出させていた。北朝鮮にいる「帰国者」を人質にした強請(ゆすり)と言ってよい。金の一部は韓国の退役将校などの「包摂」(オルグ)のために使われたとされる。
このあたりの会話では辛も興奮して日本語がしばしば出てくる。
朴:私は「先生が入ってるからかわいそうだ」というので、羅さんの息子さんに「払ってあげたいから、ください」って言いに行ったら「もう返したから払うことない」って言うから、A子姉さんに会ったら、A子姉さんも「自分が預かったお金だ」って言ってたから「そのお金を少しでも辛光洙おじさんがあそこに入って苦労してるからお金を少しだけください」って言いには一度だけ行きました。それ・・・
辛:A子姉さんの子どもと会ったことがないのに、ここまであなたを誰が連れてきた?
朴:違います。A子姉さんの娘にも会わなかったのに、私は・・
辛:操り人形。とにかく、私がお金がなくて「100万円出せ」とか言う人じゃないってことは知っとるでしょ? 祖国でお金100万が必要なのではなく、100万円どころか、何億円必要だって言ったら、僕は何億円、一カ月待ってくれって言って送った人間なのに。
(注)北朝鮮から「何億円必要」と指示されたら一カ月で調達して送ることができると自慢して、先の裁判記録を裏付けている。この一連のやりとりはほとんど日本語。このあと激しい言い合いに突入する。
(つづく)