金賢姫「実在」証明スクープの裏側

 スクープを狙うのはジャーナリストの常だが、スクープと言ってもいろいろある。

 新聞記者の世界で典型的なのは、いずれ発表される情報を他社より早く「抜く」スクープだ。単純明快だが、予定より数日、あるいは数時間早く報じられることで、世の中が変わることは少ない。

 私は、社会の動きに影響を与えるスクープにかかわる幸運に何度か恵まれたが、その一つが金賢姫(キム・ヒョンヒ)の「実在」証明だった。

 金賢姫は1987年11月29日にインド洋アンダマン海上空で大韓航空(KAL)機を時限爆弾で爆破して墜落させ、乗客・乗員計115名を死亡させた実行犯だ。金賢姫北朝鮮工作員であり、この爆破任務を、金正日の「親筆指令」(直接に下した指令)として遂行したと証言している。(金賢姫『いま、女として』(上)P183)

 一方、北朝鮮はこのKAL機爆破事件を一貫して否認し、事件は韓国情報機関の「謀略」だと主張している。つまり韓国側の「自作自演」だというのだ。当然、金賢姫なる人物はそもそも北朝鮮の人間ではないということになる

 この「謀略」説は、日本でも一時かなり流布され、私自身、これに傾いていたほどだ。しかし、事件後に明らかになったさまざまな事実から、北朝鮮工作機関の仕業であることは明らかになっていく。

 ただ、韓国においては、事件の犠牲者の遺族会を中心に、謀略説が脈々と生き残り、2003年秋以降、廬武鉉(ノムヒョン)政権下で一気にその影響を広げた。

 MBC文化放送)の『16年間の疑惑―KAL機爆破犯金賢姫の真実』という番組をはじめ三大テレビ局がこぞって謀略説に立った番組を製作し放送した。謀略説に依拠した本も出版され、日本では想像できないような異様な世論が形成された。

 焦点は、唯一の証言者である金賢姫の「真贋」だった。

 自身の正体を隠して夫と二人の子と静かな家庭生活を送っていた金賢姫のもとにマスコミの取材が押し寄せ、韓国の情報機関からの嫌がらせまでうけたため、一家は避難生活を余儀なくされるにいたった。この動きは韓国の政権自体がつくりだしたものだけに、謀略説は大きな広がりをみせた。

 この謀略説の息の根を完全に止めたのが、私の関わったスクープだった。以前、これについては本ブログで書いたが、今回はその舞台裏を後世への記録として記しておこうと思う。

takase.hatenablog.jp

 金賢姫北朝鮮の人間であることを示す決定的な「証拠」となったのは、彼女が1972年に日本のジャーナリストによって撮影された写真だった。ただ、そこにたどりつくまでには紆余曲折があり、さまざまな「論争」を経なければならなかった。

 金賢姫「1972年11月、南北調節委員会会談の際に、花束を渡す生徒として平壌近郊の力浦のヘリポートにいた」と証言している。彼女が中学1年のとき、民族衣装を着て韓国側代表団に歓迎の花束を渡したという。このイベントは、韓国はもちろん日本のメディアも取材していたのだから、写真が一枚出てくれば、金賢姫北朝鮮の人間であることが証明されるはずである。

 ところがここで混乱が起きた。韓国当局が、金賢姫だとして出してきた写真の少女は別人だったのだ。

 次に日本共産党が、党の写真雑誌『グラフこんにちは』(88年3月6日号)に「金賢姫らしい少女」を載せた。撮ったのは72年当時の日本共産党機関紙『赤旗平壌特派員の萩原遼さんだ

 これは政治的には、日本共産党による朝鮮労働党への決別宣言だった。日本共産党社会党が謀略説に傾くなか、事件当初から「北朝鮮の犯行」と見ていたのだ。

 ところが、である。これまた人違いだったのだ。北朝鮮は勝ち誇って、この少女は、平壌在住の「チョン・ヒソン」という女性だとして本人を記者会見に登場させた。北朝鮮の「勝利」である。謀略説は勢いづいた。

萩原遼さんが撮影した花束少女たち。矢印の少女を「金賢姫らしい少女」と指摘したが、別人だった。耳の形が全然違っている。金賢姫はこの少女の隣にいた。(『グラフこんにちは』より)

 花束の少女たちの中に金賢姫がいれば、金賢姫の証言通り、爆破は北朝鮮の犯行だということになり、逆にいなければ金賢姫はウソをついており「謀略」の可能性が高まる。「花束少女」をめぐる論争は「決戦場」と化した。

 実は、金賢姫はこの少女の隣に立っていたのだった。萩原さんの写真では、前の少女の陰になり顔が隠れて見えない。そしてこの現場を別の角度から撮った写真に金賢姫が写っていたのである。

 それは72年のイベントを取材に北朝鮮まで出張してきた読売新聞写真部の故三石英昭氏が撮ったもので、萩原さんは後日、三石氏からその写真を見せられていた。その写真を出していれば、早く決着がついたはずなのだが、三石氏は、こんな写真を表に出せば命が危ないと発表をかたくなに拒否していたという。北朝鮮ネタに触ることは当時、ここまで恐れられていたのかと感慨深い。

 結論から言うと2004年、私たちの取材でその写真は出てきて謀略論争を終わらせたのだが、この顛末を萩原さんが語っている記事があるので紹介しよう。

 2011年7月12日、ソウルのホテルで奇遇な縁で結ばれた3人が再開した

 金賢姫と72年に南北調節委員会の韓国側報道官として北朝鮮に行って金賢姫から花束を受け取った李東馥(イ・ドンボク)氏、そして『赤旗』の元平壌特派員、萩原遼さんだ。当時は互いに誰かを知らなかったが、39年ぶりの再会となる。

39年ぶりに「再会」した3人。左から李氏、金賢姫萩原遼さん(朝鮮日報より)

 以下、ちょっと長いが、『朝鮮日報』の記事を引用する。

《萩原氏は金元死刑囚にとって一生の恩人だ。

 「一度お会いして、お礼を言いたかった。過去の政権下で私は完全に『偽者』扱いされ、逃げるように姿を隠さなければならなかった。そのとき、萩原さんが写真を探し出し、私が『本物』だということを証明してくれた」

 そう語る金元死刑囚の言葉は震え、目には涙が浮かんでいた。

 萩原氏は大韓航空機爆破事件の後、金元死刑囚の姿がマスコミを通じ報じられると、1988年に日本共産党の画報で、花束を持つ金元死刑囚とみられる少女の姿を公開した。萩原さんは写真の少女を「金賢姫に似た少女」と説明した。しかし、萩原氏が指摘した少女は実際には金元死刑囚ではなかった。耳の部分や顔の特徴があまりに違っていた。北朝鮮は萩原さんの指摘は誤っているとして、「写真の少女は全く別の人物であり、爆破事件は捏造(ねつぞう)だ」と攻撃してきた。

 論争はそれで終わるかに見えた。しかし、2003年に盧武鉉ノ・ムヒョン)政権が発足後、「真実・和解のための過去史整理委員会」(以下、真実和解委)は「大韓航空機爆破事件は、政権を守るため、国家安全企画部(現在の国家情報院)が捏造した事件だった」との世論形成に乗り出した。左派陣営のメディアと知識人は「爆破事件は完全に捏造だ。金賢姫北朝鮮出身ではなく、工作員でもない」と責め立てた。写真についても再び論争の種になった。

 その際に真実の究明に乗り出したのが萩原氏だった。萩原氏は自身が指摘した少女が金元死刑囚ではなかったことを潔く認めた上で、ほかの証拠を探した。その過程で、当時現場を共に取材した読売新聞の写真記者が別の角度から少女を撮影した写真を持っていることが分かった。そこで読売の記者に「自分が誤報を認めた上で、あなたが撮っ写真を公表すれば、テロの標的になる危険があるというのが理由だった。公表すれば、テロの標的になる危険があるというのが理由だった。

 しかし、萩原氏が1年以上にわたり説得を続けた結果、読売記者は2004年、「ウィークリー読売」に自身が撮影した写真を掲載した。東京歯科大の橋本正次助教授は写真の鑑定を行い「少女の耳、唇の右側にある吹き出物の跡が金元死刑囚と一致する」と指摘した。

 萩原氏は「自分が誤ったことを証明するため、1年以上にわたり読売記者を説得した。記者生命が終わるかもしれなかったが、真実を明らかにすることの方が重要だった」と語った。

 新たに公開された写真は、金元死刑囚が北朝鮮出身の工作員だったことを証明する決定的な証拠となった。07年に真実和解委も「大韓航空機爆破事件は捏造されたものではない」と正式に発表した。》

朝鮮日報)2011年07月13日https://kankoku-keizai.jp/blog-entry-981.html

 亡くなった萩原さんとは親しくお付き合いしていただき、多くのことを学んだ。感謝し、また尊敬もしている。しかし申し訳ないが下線部の事実関係は違っている。

(つづく)