G7首脳が広島にそろい、原爆の犠牲者たちを追悼した。
これまで観たことのない光景で感慨深い。首脳らの平和記念資料館見学のようすは非公開だが、資料館から出てきた一般の外国人のなかに言葉を詰まらせる人がいるのも印象的だった。
私は恥ずかしながら、広島、長崎いずれの原爆資料館も入ったことがない。ぜひ今年中にどちらかには訪れたいと思う。
ウクライナのゼレンスキー大統領が広島を電撃訪問した。
彼、19日にはサウジアラビアでアラブ連盟首脳会議に出席し、会議の参加者の中にウクライナの苦しみを「見て見ぬふりをしている」者がいると訴えている。どこにでも乗り込んで必死にさらなる支持、支援を獲得しようと奮闘する姿をウクライナ国民は頼もしく見ていることだろう。
ロシアが武器を置けば戦争は終る。
ウクライナが武器を置けばウクライナが終る。
ロシアに武器を置かせるためには、ウクライナへのさらなる支援が必要だ。
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金賢姫「花束少女」のエピソードの続き。
1972年11月、金賢姫は韓国使節団に歓迎の花束を渡す生徒に選ばれ、平壌近郊の力浦のヘリポートにいたと証言する。
これが確認できれば、金賢姫は確かに北朝鮮の人間であることになる。
このイベントを取材していた日本共産党の「赤旗」特派員の萩原遼さんが撮った写真には金賢姫は映っていなかった。しかし、当日は読売新聞取材班(3人)も取材しており、写真部の三石英昭氏が別角度から撮った写真に金賢姫らしい少女が映っていたと萩原さんは後に知らされる。
私は萩原遼さんとは長いお付き合いで、よく会ってお酒を飲んだりもしていた。その写真については萩原さんに直接聞いていた。
「その写真をぜひ発表してくれと頼んだが、三石さんは、こんな写真を出したら身が危ないと出してくれなかった」と萩原さんが残念そうにいう。
ちょっと待てよ。その写真は個人的な記念に撮ったスナップ写真ではなく、新聞社のニュース用に撮影したものだ。写真の権利は三石さん本人ではなく、読売新聞社にあるはずだろう。三石さんはすでに故人になっていた。
読売新聞社の写真のライブラリーを見たいと思うが部外者は入れない。読売には知り合いが何人かいたが、当時親しくしていたのは、『読売ウィークリー』にいた藤原善晴さんだった。そこで、藤原さんに事情を話し、72年の写真を探してもらえないかと持ち掛けた。「出てきたらすごいスクープだよ」と言って。2003年の11月中旬のことだった。
写真が出てくることを前提に、番組を準備し始めた。11月22日には萩原さんを自宅でインタビューしている。
12月1日、韓国の友人のジャーナリストから、最近、野田峯雄氏がKAL機事件関連の集会に招かれて講演し、彼の本が韓国語に翻訳され、三大TVがこぞって謀略説のドキュメンタリーを製作していると知らされる。野田氏の『破壊工作~大韓航空機「爆破」事件』(1990年)は「謀略」説の代表的な本であり、韓国はいよいよ「謀略」ブームに勢いがついているようだ。
12月2日、藤原善晴さんから連絡があった。金賢姫らしい少女が映っているネガ3枚を見つけたこという。5日夕方、ホテルオークラで藤原さんを萩原さんに紹介し、ネガを見てもらう。金賢姫の特徴的な耳の形をもつ少女がいる。間違いない!
東京歯科大の橋本正次助教授に鑑定してもらうと、同一人物として「矛盾はない」との結論になった。
これは『読売ウィークリー』の04年1月4,11日号に「スクープ!『一枚の写真』が暴く金賢姫論争16年目の真実」として発表された。
私たちは、この花束少女写真に加えて、金賢姫をもっとも早くから取り調べに当たった当時の安企部捜査官に当時の捜査資料を開示してもらい、判明した新たな事実を盛り込んで特集を制作。3月末、日本テレビの夕方ニュース「ニュースプラス1」で二日にわたって放送された。
安企部の未公開捜査資料をもとにした「田口八重子さんはここにいた!−極秘捜査資料が語る金賢姫の真実−」が初日29日の特集。写真に焦点を当てたのが二日目の30日に放送された「“花束の少女”を追え!−発掘された金賢姫スクープ写真の謎−」だった。
この写真の発掘は、韓国における論争にも決着をつけた。
(つづく)