夜のニュースを伝えるテレビに怒鳴ってしまった。
衆議院であの入管法改正法案が採択された。
「不法滞在中の外国人が入管施設で長期収容されている問題の解消を図る入管法改正案は9日、衆院本会議で賛成多数で可決され、衆院を通過した。審議は参院に移るが、一部の野党側は同日、難民認定手続きを担う第三者機関の創設を柱とする対案を参院に提出し、対決姿勢を打ち出した。(略)立憲民主党や共産党などが参院に提出した対案は、難民認定の第三者機関を設置するとしたほか、外国人を収容するかどうかの判断に裁判所を関与させる仕組みを設けるとしている。参院では政府提出の改正案と、一部野党側提出の対案が審議される見通し。」(毎日新聞)
政府の改正案には最後まで反対していく。
阿佐ヶ谷着いたら超絶かっけえ人が
— YOKO@入管法改悪NO!! (@granamoryoko18) 2023年5月7日
ひとり街宣してたぜ。@yskfrsw0130 pic.twitter.com/h3iTkXLn0l
一人でも声を上げるという行動はすばらしい。見習いたい。
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中村哲医師がパキスタンの北西部、アフガニスタンに近いペシャワールに赴任するきっかけになったのは、1978年6月の福岡の山岳会のティリチ・ミール遠征隊にお付きの医師として同行したことだった。
「私を最初にこの地と結びつけたのは、雄大なカラコルムの自然と私の好きな蝶であった。何も初めから医療奉仕などという大それた考えがあった訳ではない」と中村さんはいう。
このとき中村さんは31歳で、初めての海外旅行だった。
ティリチ・ミールはヒンドゥークッシュ山脈の最高峰で、遠征隊が登っていく道すがら、医者がいると分かった村人たちが押し寄せてきた。
「我々が進むほど患者の群れは増え、とてもまともな診療ができるものではなかった。有効な薬品は隊員達のためにとっておかねばならぬ。処方箋をわたしたとてそれがバザールでまともに手に入るとは思われない。結局、子供だましのような仁丹やビタミン剤を与えて住民の協力を得る他はなかった。
ある時、咳と喀血で連れてこられた青年がいた。父親が治療を懇願した。診ると明らかに進行した結核だったので、直ちに町へ下りて病院でちゃんとした治療を受けるように申し渡した。ところが、父親が答えていわく、
『町でちゃんとした治療が受けられるなら、わざわざ二日もかけて先生のところまでこない。第一チトラールやペシャワールに下るバス代がやっとで、病院についても処方箋だけ貰ってどうせよというのか。』
これには返す言葉がなかった。(略)こんなところに生まれなくてよかったと割り切ればそれまでだが、私はどうしてもそれができなかった。しかも病人は彼だけでなない。みちすがら、失明しかけたトラコーマの老婆や一目でらいと分かる村人に、『待ってください』と追いすがられながらも見捨てざるを得なかった。重い気持ちでキャラバンの楽しさも半減してしまった。(略)
その後、私は憑かれたように機会をみつけてはパキスタンを訪れた。バザールの喧噪や荒っぽい人情、モスクから流れる祈りの声、荒涼たる岩石沙漠、インダスの濁流。総てこれら異質な風土も、かえってなじみ深い土地に帰って来るような不思議な郷愁にとらわれるのだった。そして、最近流行のこざかしい日本人論を超えて、人はやはり人であるという、当然だが妙な確信を得てほっとするのであった。」
そして中村医師は、自らをペシャワールに導いたものをこう語る。
「その後の不思議な縁の連続は、五年後にこの北西辺境州に私を呼び戻したようである。当地への赴任は最初にヒンドゥクッシュ山脈を訪れたときの一つの衝撃の帰結であった。同時に、余りの不平等という不条理に対する復讐であった。」(『ペシャワールにて』P10-12)
前号に紹介したように、不条理への復讐を、中村さんは息子さんを亡くしたとき、あらためて誓うのである。中村さんの生涯は、この復讐に貫かれていたといっても過言ではないだろう。
世間では中村哲さんは「平和主義者」ということになっていて、争いごとはいっさいしない微笑みの人、みたいなイメージを抱く人がいるが、激しい闘いの人生をあゆんだと私は解釈している。
この「復讐」という言葉は、現地の倫理のベースになる慣習法に響き合うのだが、これについては以下。