花束少女の謎

takase222010-07-26

 今から思えば、不思議な感じさえするのだが、大韓航空機爆破事件(87年11月)の直後には、この事件自体が、韓国の情報機関の仕組んだものではないかという謀略説が影響力を持って広がっていた。私もどちらかといえば、謀略説に傾いていたほどだ。
 ちょうど韓国では大統領選挙で、この事件を、保守派の盧泰愚の勝利に利用するのが謀略の目的だったとされた。
 いま日本でそんなことを言う人はほとんどいないが、朝鮮学校で使われている教科書「現代朝鮮歴史(高級3)」は例外で、今も北朝鮮の主張どおりの記述が見られる。朝鮮学校の無償化論議に賛成の人もこれは知っておいたほうがいい。
《「南朝鮮旅客機失踪事件」
 (略)南朝鮮当局はこの事件を「北朝鮮工作員 金賢姫」が引き起こしたとでっち上げ、大々的な「反共和国」騒動をくり広げ、その女を第13代「大統領選挙」の前日に南朝鮮に移送することによって盧泰愚「当選」に有利な環境を整えた》(「星へのあゆみ出版」の朝鮮学校の歴史教科書の翻訳から引用http://h-ayumi.at.webry.info/

 謀略説の代表的な本が野田峯雄『破壊工作』だった。日本ではそのうち謀略説は相手にされなくなるのだが、韓国では2003年ごろから組織的な謀略説の流布が行われた。これも信じられないような話なのだが、KBS、MBC、SBSと主要なテレビ局がみな謀略説をベースにしたドキュメンタリー番組をほぼ同時期に流すなどして謀略説は一気に広がった。私は、ここまで大規模で組織的な世論誘導は、「北朝鮮による工作」と考えるのが自然だと思っている。太陽政策時代の韓国については、またいずれ書くこともあろう。
 疑惑のポイントは、ほぼ野田本の焼き直しで、主要な論点についてはすでに反論しつくされている。ただ、最初の安企部の発表に細かい間違いがいくつもあって、突っ込もうと思えばいくらでも難癖をつけられるものだったことも事実だ。
 最も基本的な疑惑は、そもそも金賢姫北朝鮮人であるかどうかだ。謀略説では、事件自体も金賢姫北朝鮮工作員であることもでっち上げだというのだから。
 金賢姫によると、父親は北朝鮮の外交官で、一家でキューバに赴任したこともあるという。事実、亡命した外交官、高英煥氏によると、外務省関係者には知られていた。また、彼女は平壌外国語大学に在学していたから直接に知っている幹部もいて、事件後、平壌では金賢姫の話題でもちきりだったとの証言もある。(亡命した金日成の親戚、康明道氏)
 だが、謀略説からすれば、これらは所詮、亡命者の話であって、金賢姫北朝鮮にいたという「証拠」はないではないか、となる。

 これに関して華々しい論争が交わされたのが「花束の少女」写真をめぐってだった。

 事件から1ヶ月半たった88年1月15日、金賢姫の「自白陳述書」が発表された。そこで金賢姫は、北朝鮮で生まれ育った人間であること、その証拠に、72年の南北会談で北朝鮮を訪問した「韓国代表団に花束を贈呈した少女たちのなかにいた」と告白したことが明らかにされた。
ところが証言を裏付けるはずの「写真」で混乱が起きる。安企部が発表した少女の写真は人違いだった。金賢姫とは耳の形が全然違っていたのである。

 そこに割って入ったのが、なんと日本共産党だった。もう一人、別の少女の写真を公にしたのである。
 共産党発行の写真雑誌『グラフこんにちは』(88年3月6日号)に載った「金賢姫らしい少女」だ。撮影したのは「赤旗外信部・萩原遼」。72年当時の平壌特派員で、南北会談を取材して花束をもつ少女達を撮影していたのだった。
 「読者の写真 とっておきの一枚」というコーナーに、孫を抱くおじいさんやコタツで丸くなる犬といった読者から寄せられたスナップ写真とともに載っている。地味な、というより異様な扱いである。
 実は、さっき偶然にも、萩原さん本人と、新宿のある飲み屋で遭遇した。そこでこれ幸いといろいろ聞いてみた。
 なぜ、あれほど重要な写真を、「赤旗」本紙でも日曜版でもなく、あんなマイナーな雑誌に載っけたんですか?
 それはミヤケンこと宮本顕治議長の直接の指示だったという。
 赤旗の社説で、真相は分からないという論調で書こうとしたところ、ミヤケンが、北朝鮮がやったのは間違いないと立場をはっきりさせ、謀略説に立つ社会党とくっきりと差がついた。
 萩原さんが昔の写真を引っ張り出して、金賢姫らしい少女が写っていると「赤旗」の吉岡編集長経由で報告したところ、ミヤケンから、載せろという指示がきた。しかも、「グラフこんにちは」に「さりげなく」載せろ、と。
 ここがミヤケンの賢いところなんですよ、と萩原さんは言う。万が一問題になっても傷を作らないようにというバランス感覚だというのだ。
 写真掲載を、吉岡編集長が朝日の知り合いの某記者にリーク。朝日が「スクープ」扱いで報じ、「花束の少女」写真は大騒動を巻き起こした。
 ところが、なんとこの写真も「人違い」だったのである。
(つづく)