生ききりたい

 「地平線会議」の仲間、長野淳子さんが危篤だと聞き、きのう夕方、お宅にお見舞いにいった。3月13日には、お宅におじゃまして、5~6人で楽しく飲み会をやり、淳子さんもニコニコしながら一緒に卓を囲んでいた。あれから3カ月でお別れとは予想していなかったので、私は動揺していた。9月1日に淳子さんの還暦の誕生日のお祝いをしようと、友人たちが計画し始めたところだった。
 ベッドの上の淳子さんは、もう1週間前から危篤状態が続き、目も口もあいたままで、臨終が近いことは明らかだったが、かみさんが手をさすって話しかけると、かすかにうなづいてくれた。がんの末期で、本人の希望で、点滴など延命措置は採らずに自宅で最期を迎えることにしたという。もう半月、固形物は摂っていないそうで、さすがにやせ細っていた。ベッドの上にアオザイがつるしてある。淳子さんが死装束として希望したのだという。夫婦でハノイに行ったときに仕立てたお気に入りのものだそうだ。
 3月には、夫婦で舞鶴に最後の旅行をしたと、夫の亮之介さんが写真を見せてくれた。海岸で二人が手をつないで、カメラにうれしそうに微笑んでいる。近い死を覚悟して毎日を深く生きていたのだろう。帰りにかみさんが大きな声で「淳子さん、さよなら」と声をかけると、淳子さんはお腹の上に置いていた右手の手首の上をあげてはっきりバイバイと手を振った。亮之介さんが「信じられない」とびっくりしていた。帰宅して、淳子さんが、去年11月の「地平線通信」に書いた文章「生ききりたい」をあらためて読み直した。
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生ききりたい
 私はIV期の虫垂ガンで、肝臓と腹膜とリンパ節に切除不能の転移を抱えています。「余命半年」「残念です」という言葉を聞いた日から、「生きること」は切実な問題となって私の前に降りてきました。それまでの私は快眠快便、なんでもおいしく食べ、よく働きよく遊び、健康であることに何の疑いもありませんでした。

 平均寿命くらいまでは普通に生きるだろう。いやむしろ長生きしすぎてぼけたらどうしよう。80歳を過ぎて認知症を患った父親を8年間介護した経験から、不安があるとしたら、長い老後生活を想像したときにふと感じるもの、それだって何十年も先の話でしかなかった。世界ではテロが横行し、日本では東日本大震災で何万人もの方々が亡くなられ、原発によって土地を追われる現実を目の当たりにしたときに、明日どうなるかわからないと強く感じたはずなのに、それでも自分の死はずっと遠くにあって、リアルに考えたことなどまったくなかったのです。

 明日が来るのは自明のことで、当たり前のように今日を生き明日を生きるのだと思っていました。いやあ本当に愚かですよね、あんなにニコニコして油断していたなんて。全然当たり前なんかじゃないのに。
 3月3日に大腸の原発巣と卵巣を摘出し、今は命の時間を少しでも延ばすべく抗ガン剤治療をしています。日々の暮らしは穏やかな夫と8匹の猫たち、家族や友人達に支えられ静かに過ぎていきますが、過酷な治療にはしばしば心が折れそうになります。
 ガンという病の恐ろしさは、身体を蝕むものが外から侵入した細菌やウイルスの異物ではなく、自分自身の細胞そのものだということです。私の身体の小宇宙で何かが起こっているのか全く自覚のないまま、それは深く静かに変異していたという感じ。いい子に育っていると信じていた我が子が、ある日突然盗んだバイクで夜の学校に乗り込み窓ガラスを割って暴れ回るようなもので、母としては子どもの小さな変化に気づかなかった自分の鈍感さを呪い、「これ以上暴れないでおくれ、よしお〜」と取りすがって泣く訳です。でも一度グレてしまった彼はどんどん不良仲間を増やして悪さを繰り返す。陳腐なたとえですが、ガンとはそんな病気だと思います。

 現代のガン治療のスタンダードは、手術・抗ガン剤・放射線の3本柱です。「今はすごく科学が進歩してて、色々な治療法が生まれているからね。絶対よくなるよ」病気になってから何度か聞いた言葉です。iPS細胞を始めとして、確かに科学の進歩は目覚ましく、暴走するガン細胞を初期化して元に戻すことができる日が来るかもしれない。保険のきかない先進医療も実際にたくさん行われているし、私自身一回何百万もする治療を勧められたこともあります。
 ただそれらの治療はエビデンスがないと言われるし、何より経済的に継続不可能です。ガンはできた箇所、進行のステージ、年齢などで治療法が異なる、本当にパーソナルなもので、選択肢は限られています。その中で抗ガン剤は、グレまくる子どもたちを叩いて叩いてなんとかおとなしくさせる先生みたいなものです。でも実はこの先生、どの子がグレていてどの子がいい子なのか見分けることができないのです。見境なく攻撃してしまうので、ガン細胞だけでなく正常細胞も相当なダメージを受けることになります。いわゆる抗ガン剤の副作用です。「過酷な治療に心が折れる」と言ったのはこのことです。

 私は今、2週間に一度50時間連続で抗ガン剤の点滴を受けています。そのために胸に円盤状のポートを埋め込みました。そこに画鋲のような針を刺し、直接静脈に薬を流し入れるのですが、その日が来るたびにドMの女王になったような気がします。朝の満員電車で病院に行き、検査・診察を経て、午後から副作用止めの5種類ほどの薬を4時間かけて入れます。それが終わるとバルーンに入った抗ガン剤が取り付けられて、針を刺したまま夜のラッシュに揉まれながら家に帰ります。

 針が取れるのは2日後の夜。その間は寝返りも打てず熟睡はできません。点滴につながれて生活する3日間が辛いのはもちろんですが、その後は激しい疲労と下痢に苦しめられます。自在にコントロールできていた排便が困難になり、何度も繰り返し下痢をするので、お尻はただれいつもズキズキと脈打つように痛みます。当然主治医に訴えるのですが、先生は「そういう副作用があるんですよ」と言って大量の下痢止めと座薬を出してくださるわけです。副作用は他にも様々経験しています。手足がしびれ爪が割れる、口角炎、舌の味蕾がおかしくなって食事がまずくなる。髪の毛がなくなる寂しさも味わっています。「副作用」の一言で片付けられるたびに、「仕方ないでしょ。だってあなたガンなんだから!」と言われているような気持ちになるのです。「抗ガン剤で殺される」と主張する本がバイブルになる一方で、トンデモ本として激しく批判されてもいます。

 胸に針刺して生活するよりも、枇杷葉の上にコンニャクのせてお腹をあっためる方がずっと癒されるのは確かです。でも命を弄ぶような事件が毎日報じられるにつけ、私は最期が来るまで出来るだけのことをして生ききりたい。私のハゲ頭を撫でて「オランウータンの赤ちゃんみたいだね」と笑う能天気な夫(褒めてます)と一日一日を積み重ねて生きたいと思います。(長野淳子)
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 これだけ冷静に、ときにはユーモアさえまじえて自分の近づく死を書けるとは。その覚悟には気負いも斜に構えたところもまったくない。彼女の死の迎え方の見事さに感動した。淳子さん、ありがとうございます。
 昨夜、23時8分、淳子さんは永眠した。私たちがお宅を辞して4時間後。亡くなる前にお別れできたのは幸運だった。
 淳子さんをしっかり支え続け、きのう一日だけで私たちを入れて21人もの人に、淳子さんとのお別れをさせてくれた亮之介さんにも深く感謝したい。
 これが病院であれば、面会謝絶になるところだ。在宅での死のあり方をふくめ、さまざまなことを考えさせられた。
 淳子さんのご冥福を心よりお祈りします。