「何もない」すばらしさ

takase222014-12-23

きのうは「朔旦冬至(さくたんとうじ)」という日だったらしい。
かみさんに教えてもらったのだが、太陽の照る時間が最少になる冬至新月が重なる日だそうだ。だから太陽と月の復活が始まる、ダブルでめでたい日で、19年に一度しか来ないそうだ。
そう考えると、何だかとてもおめでたいような、幸運な気分になってくる。
ただし、次回の「朔旦冬至」は特殊で、19年後ではなく、38年後だそうで、私はとっくに死んでいるだろう。
天体の動きから言えば、きょうからどんどん日がながくなって、春に向かっていくのだな。
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信州にいる私の旧友K君が、きのうのブログを読んで「懐かしさいっぱい」とメールをくれた。お父さんの仕事の関係で小5〜6年を喜界島で過ごし、毎日のように友達と海に遊びに行ったという。
「のんびりとして人情にも厚く、過ごしやすいところでした」と書いている。
まさにそのとおりで、失礼ながら、これはという観光スポットもなく、ツーリストがほとんどいない静かな島で、人々が実に親切であたたかい。
写真は、阿伝集落のサンゴの石垣。

私は今回、島の看護師さんを取材しに行った。
一晩、数人の看護師さんと一献かたむける機会があった。離島は医療スタッフが不足していて、その宴にいたほとんどが島外から派遣などでやってきた助っ人である。いろんな場所を渡り歩いてきた、ある看護師さんが、この島を絶賛したのが印象に残っている。

いわく、今はどこも観光で地域おこしをしようと懸命だが、そうすると地域全体での「演出」がはじまる。
伝統的な芸能や食文化を洗練した形に変え、あらたな祭りや行事(今では日本全土に「よさこい」があったりする)や名物料理(今まで地元では誰も知らなかったB級グルメとか)、しゃれたレストランやカフェがつくられていく。
喜界島には、そうした「演出」がまったくなく、したがって何も特別なことが起こらず、たらーっと時間が流れていく。彼女は、地域のほんとうの魅力は、観光「演出」にはないという。
そして、広いサトウキビ畑で眺める星空の美しいこと、夏の夕焼けのなか、浜辺で波にゆられていくと自分自身がオレンジ色に染まっていくような錯覚に襲われること、島の人々から旧知の人のように受け入れられたことなど、滞在2年で体験した島の魅力を次々に挙げて、「この島を心から愛している」ときっぱり言ったのだった。

「何もない魅力」というのは私にも分かる気がする。
昔々1983年のこと、はじめてラオスに行ったとき、その「何もなさ」に衝撃を受けた。
当時は社会主義政権を嫌って大量の国外脱出があり、ほとんどの店が閉まっていた。もともと観光地が少ないことに加えてそんな事情なので、ツーリストはほとんどいない。
私はそのとき、番組取材の準備をするため、先乗りしていたのだが、役人は働いてくれず、仕事が遅々として進まない。はじめはイライラしていたのだが、次第に、その雰囲気になれ、何もなく過ぎるゆったりした時間の流れに魅せられていった。
ラオス人が、どうしようもなく人が良いことにも驚いた。モノを置き忘れても盗まれず、騙されたこともない。
そして、結局、「一番好きな国はラオス」と言えるようになったのである。

大学でラオスの言葉と文化を学んでいる娘も、その魅力にすっかりハマってしまったようだ。