福島県庁にて2−人殺しと言われた飯舘村長

takase222011-10-16

双葉町長の井戸川さんは、3月12日の1号機爆発の「死の灰」を浴びて、すね毛が脱毛したという。
さらに「最近は、すねの皮膚が赤くなってきた」と弁慶の泣き所あたりを指すと、確かに毛細血管が浮き上がったように赤くみえる。急性症状だとすると異様な量の放射線を浴びていることになる。
そばに南相馬桜井市飯舘の菅野村長がいたが、すでに知っているのか二人とも驚かず、「野田総理の前で、ズボンまくってすねを見せなくちゃ」と笑ってけしかけた。

さて、飯舘村は、放射能汚染で日本一有名な村になった。
あらためて紹介すると、村は原発の30〜50kmに位置し、当初ほとんど避難区域に入っていなかったが、後に放射能汚染度が高いことが判明、事故後1ヶ月が経った4月11日、村の全域が「計画的避難区域」に指定された。
1ヶ月で全村避難せよとの政府方針だったが、村役場が村外に移転したのが6月22日と大幅に遅れた。遅れの理由は、菅野村長が政府に対して即時避難を拒否し、交渉を続けていたためだった。5月あたま、菅野さんは新聞にこう語っている。
性急な避難は「精神的、肉体的、経済的、さらに子どもの教育までもリスクを負う。放射線から健康を守ることが重視され、避難によって生活の安心を崩すリスクが考慮されていない」
「子どもや線量の高い地域は避難を進めるべきだが、ある程度、暮しながら、対応したい」「牛はいるし、会社だってある。補償がなければなかなか動けない」(読売)
実際、他の被災地では、避難で多くの高齢者が亡くなっている。また、会社や工場が閉鎖になり、たくさんの人々が収入と生きがいを奪われていた。
菅野さんは「柔軟な避難」を粘り強く要求しつづけ、終末期含め107人の高齢者が入居する特養施設「いいたてホーム」や複数の工場を村に残すという例外的な措置を実現させた。
結果的に避難を遅らせた菅野さんの行動に対し「人殺し」との批判が寄せられた。
これに対して菅野さんは、「放射能の害よりも避難の害の方が大きい場合だってある」と反論した。マスコミも行政も「命が大切」一色のその当時では、とても勇気ある発言だった。

ストレスで体重が5キロ落ちたと言う。
しかし、その発言は、私がチェルノブイリで見たことに一致していた。放射能リスクより移住リスクが高い現実があったのだ。http://d.hatena.ne.jp/takase22/20110615
飯舘の村長とはどんな人なんだろうと興味を持ち、菅野典雄著『美しい村に放射能が降った』(ワニブックス)を読んだ。これは非常に興味深い本である。
(つづく)