北朝鮮とリビア4

国連安保理が対リビア制裁を決議したのは1992年3月だった。
この制裁は2つの段階を経て解除される。
まず99年4月5日、リビアはテロ容疑者2人を国連代表に引き渡した。テロの実行を認めたのだ。直後、国連は対リビア制裁を停止した。この時点ではあくまで「停止」である。
2003年の8月、リビアパンナム機犠牲者への一人1千万ドル(約12億円)の賠償支払いを約束した。その翌月、制裁は正式に「解除」された。
つまり、はっきりした変化が国際社会に認められたのは、99年のことだった。年表を見ていくと、98年8月、容疑者の裁判をオランダで開くようにという英米の要請にリビアは受け入れを表明している。その前年には、イギリスと水面下の交渉が始まっていたと見られる。つまり、リビアが進路について大きく舵を切る決断をしたのは、97年ごろまで遡るようだ。
この転換を背後で主導したのは、カダフィ大佐の次男(第二夫人の長男)のセイフ氏だ。35歳の若きプリンスで、ウィーンの大学で経営修士号を取ったあとロンドンで経済学を勉強している国際派。欧米に知己が多いという。
石油アナリストの畑中美樹さんは、セイフ氏に何度も会っている事情通だが、リビアの転換における彼の役割をこう語る。
リビアというのは、カダフィ大佐が指導する国家で、大佐の意向を汲み取り、大佐にはっきり物をいえる立場の人でないと、大きな政策の転換を進言できない。息子さんだと、はっきり物がいえるし、大佐も息子からいわれれば、耳を傾けざるを得ない。セイフさんは、グローバル化した時代のリビアの建国の祖になるでしょう。」
このセイフ氏、97年にはフィリピンの「アブサヤフ」というイスラム過激派に捕らわれた外国人の解放交渉にからんで金を運んだり、99年にはやはりフィリピンで、対立していたMNLF とMILFという二つのイスラムゲリラ組織の休戦を呼びかけたり、リビアの外でも活躍してきた。本物の改革派と言っていいだろう。
一方、実務官僚の中の改革派といえば、99年の賠償金支払い宣言当時の首相、ガーネム氏を筆頭とする。彼はいま石油公団総裁として、リビアの輸出の9割を占め、国家財政の要である石油を仕切っている。いま外国人ビジネスマンが最も会いたがるリビア高官だ。彼はOPEC(石油輸出国機構)の代表でウィーンに駐在していたとき、その地に留学していたセイフ氏との信頼関係を築いたとされる。彼と親しい畑中さんの紹介でインタビューすることができた。
なぜテロ被害者への補償金を支払ったのか?
「石油産業に必要な機材の部品を米国から輸入するのを禁じられた。その結果、70年に一日350万バレルあった石油生産量が半減してしまった。制裁を解除してもらうには、パンナム機事件被害者への補償金を支払うしかなかった」
そして制裁が解かれて、「賠償金よりもはるかに大きな利益を得ることができた」と言って笑った。要するに、かえって得したというのである。
では、大量破壊兵器の放棄はなぜ決断したのか?
核兵器よりも経済発展に金を使う方が良いと考えた。銃かバターかの選択で、我々はバターを選んで、経済を発展させることにした」
権力のトップと実務官僚が手を組んで、非常に実利主義的な思考のもとに改革が進行しているのだ。彼らの話からは、イデオロギッシュなものを全く感じない。「改革開放」への転換の覚悟がない北朝鮮とは大違いである。
町を歩くと、リビアはかなり自由度の高い社会だということが分かる。どのビルの屋上にも所狭しとパラボラアンテナが置いてある。ほとんどのトリポリ住民は、退屈な国営テレビではなく、300チャンネル以上ある外国の衛星チャンネルを観ているのだ。それは90年ごろからのことで、CNNやBBCが制裁期間中もずっと空から垂れ流されてきた。リビアは、北朝鮮のような「全体主義」国家ではない。
ここ数年、外国人観光客は毎年ほぼ倍増の勢いで、投資も輸入品も勢いよく流れ込んでいる。建設ラッシュが始まり、今や、爆発的成長の入り口である。
先月、リビアが30年ぶりに国連安保理非常任理事国に選ばれたが、「あのテロ国家が」、と隔世の感がある。