リビアの大転換は、アメリカによるイラク攻撃に震え上がったからだといわれてきた。
たしかに、2003年12月14日に米軍がサダム・フセインを穴倉で拘束すると、1週間もたなない19日にリビアの核放棄宣言が行なわれている。
そこでネオコンは胸をはって主張する。だからイラク戦争は意味があったのだ。物事は力で脅さないと動かないのだ・・・と。
この主張を裏付けるかのような記事がある。要点を紹介すると;
《サダム逮捕の3日後に、米NSC(国家安全保障会議)のロバート・ジョセフはロンドンに飛び、米、英、リビア3国でリビアの大量破壊兵器放棄を発表する方法について協議した。これはラムズフェルド国防長官やパウエル国務長官にも事前に知らされなかった。
リビアからは、パンナム機爆破事件の指揮者との噂がある、情報局のムサクサ局長が出たが、彼の宣言草案はひどいものだった。その上、アメリカがリビアに対して「レジームチェンジ」の助長をしないこと、制裁を解除すること、外交関係を回復することなどの交換条件を要求した。ジョセフはそんな条件は論外だと蹴った。実は、ジョセフは、爆破されたパンナム機に乗る予定だったが、直前で便を変更して無事だったというエピソードの持ち主で、リビアの「転換」には懐疑的だったのだ。
翌日、ブレア首相がカダフィに電話をして、ちゃんとした宣言をするよう、後押しし励ました。発表予定時刻の4時間前までトリポリとの間を草案ファックスが行き来した。だが、発表が遅れたのは、官僚がサッカー中継を観ていたカダフィ大佐の邪魔をしたくなかったからだった。大佐が読み上げるはずの宣言は、急に風邪にかかったとの理由で、代わりに外相が読んだ。》http://online.wsj.com/article/SB114782683887354886.html
書いたのは、元ニューヨークタイムズの有名記者、ジュディス・ミラー。05年、CIA工作員の氏名漏洩問題に絡んで時の人になった。取材源の公表を拒否して収監された唯一のジャーナリストだが、その後情報源はチェイニー副大統領補佐官のリビーだと明かして釈放された。非難の声のなか、その年末にニューヨークタイムズ社を去り、上の記事はウォールストリート・ジャーナルに06年5月17日に載ったものだ。
上に紹介した部分のあとは、クリスマス休暇からアメリカ政府がリビアに乗り込んで大量の核・ミサイル関連物資を運び出す顛末になるが、まともなリビアの地図さえない状態で途方にくれたり、航空便を押さえようとアメリカ人と入力したら自動的に予約拒否されたりと、ドタバタぶりが面白く描かれている。
ミラー記者はイスラム敵視の激しい人で、かつて、イラクの大量破壊兵器の「脅威」を垂れ流して問題にされた。ちょっとクセのある記者なのだが、記事にある詳しいやり取りのディテールは、おそらく当事者からの情報で事実なのだろう。
とはいえ、実際には、リビアの転換は、はるか以前に決断されていたのである。2003年はいわば転換の仕上げだったのだ。
リビアの変身はどのようなものだったのか。