クマが増えてウサギが減ったわけは?

 ロシアによるウクライナ侵攻が続くなか、自分たちにできることは何か。

 これに詩人の谷川俊太郎が答えていわく。

「毎日の生活をちゃんと送ること。コンスタントに生きているということが、アンチテーゼになる」朝日新聞12日夕刊)

 考えさせられる言葉だ。

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 「熊出没注意!」

市街地に近い場所でもこの看板がある

 山形を自転車で旅していて何度も見かけた看板だ。

 テレビニュースでは実際的な注意もふくめ詳しく報じていた。

〇熊と遭遇してケガをしたケースが去年までの10年で24件あり、9-11月の冬眠前が約7割であること。今年は目撃情報がとくに多いこと。

〇山林に近づくときの対策としては、ラジオや熊よけの鈴など音の出るもので人の存在を熊に知らせること。子熊や子連れの熊に近づかないこと。万一熊に遭遇した場合、落ち着いてゆっくりとその場から離れること。

〇熊を人里に近づけない対策としては、餌となるとりのこした果物やハチの巣、放置された生ごみを撤去すること。熊が身を隠すことができる河川敷などの草刈り。

 山形県のホームページでは「クマの目撃マップ」を掲載している。

山形県のHPのクマの目撃マップ

 情報がとても具体的で生々しい。

 岩手県はもっと大変で、去年、市街地へのクマの出没が相次ぎ、今年度、人が襲われてけがをしたケースが2月時点で14件に上っているという。被害が相次いだことから来年度は駆除できるクマの頭数の上限を引き上げ、今年度の546頭から80頭多い、626頭にすることを決めた。(9月29日のNHKニュース)

 626頭。これ、岩手県一県での駆除頭数である。こんなにクマ(ツキノワグマ)がいるのか・・。

 今回の旅では、クマタカで猟をする日本唯一の鷹匠松原英俊さんの家を天童市の郊外に訪ね、お話を聞きながらタカークマタカイヌワシオオタカ、ケアシノスリの4羽―を見せてもらった。

 市街地から10km山あいに入った集落で、上り坂が続き自転車にはつらかった。

松原英俊さん。家の中にちょっとケモノ臭が漂っていた。

クマタカ。毎日生きたニワトリを絞めて餌として与えている。11月からは猟の訓練に入る。

 私は数年前、松原さんの講演を聞いてその哲学と人格に魅せられ、「追っかけ」になった。講演会が東京であると聞くとかけつけていたが、いつか山形の家を訪ねたいと思っていた。それが今回かなったわけだ。

 鷹匠を続けるのはとても大変だ。昔なら獲ったウサギの肉と皮の需要があって売れたが、今はない。現金収入といえばタカでカラスを追い払う「仕事」の手間賃と講演料くらい。

 畑をやっているが、サルの集団が襲ってきてトウモロコシが全滅したりと山奥の暮らしも楽じゃないという。イノシシもたくさん姿を見せるという。よく車にひかれるそうで、今年は道路で死んでる3頭ゲットしたのはうれしかったと松原さん。いつもは生きたニワトリを買ってきて一日1羽半くらいを餌にするというが、タダで手に入ったのだ。小さめのイノシシ1頭で、飼っている鳥4羽の5日分くらいになるという。余った肉は?と聞くと冷凍庫に入れておくとのこと。松原さんの暮らしはタカが中心なので、家に入った瞬間、ケモノの匂いがしたのに合点がいく。

 後継者もいないのでたぶん松原さんでクマタカ猟の技能は絶えてしまうだろう。つまり唯一にして最後の鷹匠である。

 松原さんは、この冬も月山周辺で鷹狩をする予定だが、近年ウサギが激減していて、一日中探しても一匹も狩ることができないこともよくあるという。

 クマやサル、イノシシ、シカなどは非常に増えているようなのに、ウサギが減っているのはなぜか。

 松原さんによると、ウサギやリスなどの小動物が減っている原因はよく分かっていないという。一説には、ウサギの天敵であるキツネやテンが、毛皮の需要がなくなって獲られなくなり数が増えたのでウサギが食べられて減ったとする。別の説は、森の手入れがなされずにどんどん荒れてきて、ウサギが好む柔らかい下草が生えなくなったからだとする。

 生態系のバランスはまだまだ分からないことが多い。

 

「ベトナムの赤ひげ」服部匡志医師

 10月12日、ミャンマーの裁判所は、治安当局に7月30日に拘束されたドキュメンタリー制作者・久保田徹さんに入国管理法違反の罪で禁錮3年を言い渡した。これまでにインターネットなどの電子通信に関する罪と扇動罪でも禁錮7年を言い渡されており、刑期は合わせて10年になる。

久保田徹さんの即時解放を求めて、支援者らが17日、東京・霞が関の外務省前で集会を開いた。代表者らは久保田さんやミャンマーの全ての政治囚の解放に向け、日本政府の実効的な対応を求める要請文を外務省の担当者に渡した。(朝日新聞より)

 日本政府は即時解放に向けて努力しているというが、どこまで真剣にやっているのか。軍事クーデター政権に厳しく対処するなどと言いながら、安倍元首相の国葬に、駐日ミャンマー大使夫妻を招待して現在の軍政にお墨付きを与えた日本政府である。

 岸田首相は、統一協会(世界平和統一家庭連合)について、宗教法人法に基づく「質問権」を使った調査の手続きを進めると表明したが、世間の非難をかわすためのパフォーマンスに終わる可能性も高い。

 とりあえず形だけをつくり「やってる感」をアピールするだけで実質なにもやらない。これがこの間の自公政権の決まったパターンになっている。

 その典型が北朝鮮による拉致問題だ。

 勇ましく聞こえる「全員一括即時帰国」の方針が、逆に実質的な解決を不可能にしていることについてはすでに何度も指摘したので繰り返さない。
https://takase.hatenablog.jp/entry/20220918

あれから20年経つが・・(NHKニュースより)

 15日、5人の拉致被害者の帰国20年にあたり、今のままでは、拉致問題の進展はむりだろうと無念の思いを新たにした。

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 日本にかかわる憂鬱な話が多いなか、ここで一つうれしい話題を。

 今年のマグサイサイ賞を日本の眼科医で「アジア失明予防の会」代表の服部匡志さんが受賞したニュースは先日紹介した。
https://takase.hatenablog.jp/entry/20220905

 先日、NHKニュースで小特集が放送され、服部さんの人となりにあらためて感銘を受けた。

 マグサイサイ賞は、アジアのノーベル賞とも言われ、この受賞者には、マザー・テレサダライ・ラマムハマド・ユヌスグラミン銀行創設者)、日本人では緒方貞子そして中村哲がいる。

患者を診る服部さん(NHK「国際報道」より)

 服部さんは、日本での学会で出会ったベトナム人医師に「ベトナムでは多くの人が失明している」「是非ともベトナムに来て患者を救って欲しい」と頼まれ現地で3ヶ月治療に当たったが、このまま見捨てておけないと、それ以降ベトナムに通って白内障などの治療を無償で続けてきた。

ベトナムの患者に感謝される服部さん(NHKより)

 高額な医療機器も自費で購入し、月の半分は日本国内で医師としてアルバイトをし、半分をベトナムでの治療に携わるという暮らしを20年以上続けている。まさに「ベトナムの赤ひげ」だ。

 「視力の回復が貧困からの脱却につながる」と服部さんはいう。おじいちゃん、おばあちゃんが見えるようになれば、孫の世話ができ、お父さん、お母さんが働くことができるからだ。

 服部さんは高度な眼科手術の技量で知られ、とくに網膜硝子体手術の分野では日本トップレベルの技術をもつ。その技術を服部さんはベトナムの医師に惜しみなく教え、医師の育成でも貢献している。

ベトナム人医師の育成にも努力している(NHKより)

 服部さんの「患者さんをお父さん、お母さん、あるいは自分の子どもだと思って手術しろ」との教えはベトナム人医師にも響いているという。将来はベトナムに総合研究施設をつくりたいと服部さんはさらなる活動を展望している。すばらしい。

夢は総合研究施設をベトナムにつくること

 医師を志すようになったのは、父親が胃がんで苦しい闘病生活を送っていたとき、病院の詰め所で医師や看護師が「あのクランケはもうすぐ死ぬのにうるさいやつだ」などと悪口を言っているのを聞いたことがきっかけだったという。父親はまもなく亡くなったが、「患者さんの痛みがわかる医師になる」と高2の服部さんは決意したという。

 しかし成績は振るわず、医学部に合格するまで4浪している。入学してもバイトと麻雀、バスケに明け暮れる毎日で決して優等生ではなかった。

4浪して医学部に入学

 私の尊敬する別の医師(例えば、「ザ・ヒューマン」で紹介した手術支援ロボットのエキスパート、竹政伊知朗さん)も、高校時代に家から勘当され、友だちの家に転がり込んで自堕落な暮らしをしていたことがある。

 順調な歩みをしてこなかった人が、のちに世のため人のために尽くすことになる。ほほえましく、また励まされるエピソードだ。

 4浪を経験した服部さんは、ネバーギブアップが信条とのことだ。

 最後に服部さんはやりがいについて、こう語った。
「自分が何かすることによって、自分が幸せということを感じることができれば、これが一番いい」。

実は私も患者さん感動とか幸せな気持ちというのを得ていると服部さんは言う(NHKより)


服部匡志医師のような日本人の存在を知るとほんとうに勇気づけられる。

『裸のムラ』に見る日本社会

 マキャベリがこんなことを言っている。

ニッコロ・マキャヴェッリ Wikipediaより

《また、恐怖にかられて譲歩して、戦争を回避しようとしても、結局のところ、戦争しなければならなくなるのがおちだからだ。というのも、万一おじけづいて譲歩したことを相手に見せれば、当の相手はそれだけで満足するどころか、さらにずうずうしくなって、これまで以上のものを取ってやろうとするし、腰抜けだとみてとれば、それだけ図にのって強い要求を持ち出してくるものだからである。

 一方、君が弱虫で腰抜けだということがさらけだされると、たとえ君の見方でも、ますます冷淡な態度をとるようになるだろう。

 しかしながら、君が敵の企みを見抜いたら、軍事力が敵のそれに下まわるような場合でも、すぐさまこれと戦う準備をしなければならない。そうすれば、敵も君のことを見なおしはじめるだろうし、まわりの君主たちも君を尊敬するようになろう。君が武器をなげだしてしまえば、とうてい君を助ける気にならない者でも、君が武器を手にして雄々しく立ちあがれば、援助に駆けつけるようにならないとは限らない。》(『ディスコルシ』;引用は『法と哲学』8巻頭言より)

 ウクライナのことやら、日本の防衛のことやら、いろいろ想像をかきたてられる言葉だ。
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 先日、映画『裸のムラ』ポレポレ東中野で観てきた。

 石川県知事選にまつわる権力移譲劇のドタバタを背景に、車のバンをすみかに自由な暮らしを送るバンライファーの一家、日本の同調圧力に苦労するムスリムの一家を配して、日本という国の「空気」のありようを描いている。

『裸のムラ』

 監督は富山市議会の不正を描いた問題作『はりぼて』の五百旗頭(いおきべ)幸男さん。前作を機に富山のテレビ局を辞め、石川テレビに移って取材した作品だ。

 バンライファームスリムの家族がとても魅力的だった。
 ムスリムの家族は、父親が日本人で、インドネシア人女性と結婚するにあたってイスラム教に改宗。3人の子どもがいる。

インドネシア人(妻)のヒクマさん。日本国籍なんか取らないよ、と

 その妻の語る言葉が、いちいちグサッとくる。

 なぜ日本国籍を取らないかとの問いに
「日本国民になっても、私を日本人とは思ってくれないでしょ。顔で判断するから」(表現は正確ではないが)

 ウクライナ戦争をテレビニュースで観て
パレスチナイスラエルが攻め込んできても助けてくれないでしょ。パレスチナウクライナと同じなのに」

 また、日本の同調圧力
「(ムスリムの社会は)日本ほどきびしくないよ」

 次女は小学4年生のとき、ヘジャブ(女性が頭や体を覆う布)をつけて登校しはじめ、今も常時つけている。それは、ヘジャブをしていない彼女を認めてくれるひとより、ヘジャブをしている彼女を認めてくれる人を友だちにすると決意したからだった。

 また、日本人の夫は、公安調査庁からムスリム仲間の情報を求められ、他の宗教だったらスパイをせよと求めないはずだ、なぜイスラム教だけ、と憤って拒否したという。

 政治家のドタバタには大いに笑わされたが、日本社会の「忖度」する空気に不気味さを感じ、その中に自分もいて加担しているのではないかと自問するうち、だんだん怖くなってくる。

 

 上映後、五百旗頭監督のトークショーがあった。

五百旗頭監督

 「金沢と東京で同時に封切りだったが、東京では森喜朗元首相が登場しただけで会場に笑いが起きた。金沢ではまったく笑いがなかった」という。

 観る人によってさまざまな見方ができる快作だった。

 

兵役逃れのロシア人を「難民」と見る

 故郷の山形県を自転車で回る旅から帰りました。

山形県高畠駅前にて。ウクライナ国旗をあしらったTシャツで出発。旅の前半は連日最高気温27~28℃まで上がってT シャツでも汗だくになった。

 ブログが更新されないので心配しているとの連絡もいただき、ありがとうございました。おかげさまで無事帰ってきました。

 新潟との県境の小国町から米沢市山形市新庄市を経て庄内地方酒田市鶴岡市まで9月23日から10月9日まで17日間にわたる長旅で、自転車の走行距離は約555キロ。その行路の多くは黄金の実る小金の田園で、たくさんの出会いのあるすばらしい旅でした。

後半は急に冷えて、10月6日に月山八合目の弥陀ヶ原に行ったときは4℃。ガスがかかって幻想的な風景だった。

死期が近いトンボが体に止まってくる。秋を実感する。

ちょうど稲刈りのシーズンだった。山形の農村は美しい。

 今はちょっと放心状態で、しばらくは日常を取り戻すのが難しいかも。
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 こんなに長く新聞もテレビもほとんど見ないというのは、昔むかしラオスの山奥で長編ドキュメンタリーの撮影のADをしていたとき以来だった。帰京後、たまってた新聞とテレビの録画番組をせっせと見て、この間のニュースをいまキャッチアップしているところだ。

 気になったこのかんのニュースをいくつか挙げ、ひと言ずつ感想を言うと―

 北朝鮮が毎日のようにミサイルを打ち上げていた。

 ここまで頻繁に発射すると、北朝鮮のねらい、政治的メッセージは何かという解説が復活してしまうが、発射の目的は核・ミサイルの実戦配備のための改良であって、やれるときにはどんどんやる。逆に言うと、政治的配慮でやれない期間だけ遠慮する。当たり前の話だが、発射はすべて技術的な改良のための実験なのだ。

 きょう宇宙航空研究開発機構JAXA)が小型ロケット「イプシロン」6号機の打ち上げに失敗した。日本のロケット開発には大きな痛手だが、技術的にはこの故障を突き止めることで次が見えてくるという意味で、失敗にも価値がある。たくさん実験をやることで進化していく。

 北朝鮮のミサイルの水準が、すでに日本の迎撃能力をはるかに上回るほどに達してしまったのも、発射実験にまい進していたからだ。いま騒いでも遅すぎる。

 国葬儀」なるものがあったらしい。

 その日、9月27日は私が山形市に入った日だが、まったく「異常」は見られなかった。翌日28日、旧友10人以上と飲み会をやったのだが、誰一人「国葬魏」を話題にしなかったし、その言葉自体も聞かなかった。国民が悼まない「国葬儀」は無意味だ。

 それにしても、統一協会自民党の癒着ぶりは底なしであることがますます明らかになってきている。その政界フィクサーみたいな立場にあった安倍晋三氏を調査対象にしなければ真相を解明できない。

 統一協会が、政策に影響を与えたことは深刻で、それはさまざまな方面に影響が出ていることを知らなければならない。
 例えば、中高生の性の現状を憂うる産婦人科医の河野美代子さん(『さらば悲しみの性』著者)によれば、「性の悲しみは以前よりも増しています。性教育が2000年代に激しいバッシングを受けて貧しい内容に後退した一方、AVがセックスの教科書になっています。」

 具体的に社会に悪影響を与えてきたのだ。

 ロシアがウクライナ4州の併合を決めた。 

NHKニュースより


 併合といっても、州全体(黄色い線で囲ってある)なのか、それともロシア軍が占領しているエリア(赤い部分)を意味するのか?
 ルハンシク州とドネツク州は州全体だが、ザポリージャ州とヘルソン州についてはどちらの意味か不明だという。

 プーチンは4州を「併合」したうえで、「自衛権」を持ちだし、ここはロシアだから攻撃されたら侵略とみなして核兵器でも何でも使うぞと脅している。なりふり構わない暴挙に出たわけで、これで「停戦」「休戦」への道は完全に閉ざされた。

 プーチンの30万人の予備役の部分的動員命令で、抗議行動が再燃、多くの人々が拘束された。また兵役逃れのため数十万人の男子がロシアから国外へと逃げだしたという。

 こうした国外脱出組をどう見るかでEU諸国も割れてきた。例えばロシア人へのビザの発行を停止すべきか否か。ロシア人に、プーチン打倒の方向に向かわせるため停止して思い知らせるのがよい、いや戦争に反対するロシア人はむしろ受け入れていくべきだと意見は割れている。

 どちらも理屈は立つ。
 ウクライナ人のなかには、兵役逃れのロシア人たちの反戦は自分が殺されたくないだけの動機であって、ウクライナでの殺りくを罪悪とする本当の反戦ではないという厳しい意見もあるのだが、『サンデーモーニング』(10月2日)で、コメンテーターの渡辺カニコロンゴ清花氏(難民の就労支援活動をしている)が、国外脱出するロシア人の個々人を難民として見るという明快な論理を語って、なるほどと思わされた。

「本国にあって迫害や差別を受けて、本国による保護を受けられず、国外に出る人」は難民であって、保護されるべきだというのだ。

 人権にかかわる活動を現場で続けている人のもつ明確な切り口にうなづかされることが多い。

ジェンダー問題で自民に食い込む統一協会

 しばらく旅に出て、ブログをお休みするが、これだけは書いておきたい。

 統一協会(これから統一教会ではなく「協会」とする)が、自民党を支援した動機が協会にお墨付きを得るという組織防衛のためだけでなく、協会に都合のよい政策を施行させるためだったことが明瞭になってきている。これは、協会の異様でファナティックな目的をこの世に現実化させようとするもので、日本にとってきわめて危険である。

 その一例を先日の『報道特集』が追及していた。

 05年、第三次小泉内閣猪口邦子氏が「男女共同参画担当大臣」になったころは、自民党内でも「ジェンダーフリー」(職業や家庭で男女の性差にとらわれず自由に生活する)の機運が高まり、「男女参画第二次5カ年計画」が策定されようとしていた

猪口邦子氏(報特より)

 これに危機感をもったのが統一協会だった。鈴木エイト氏提供の当時の内部文書には「第二次5カ年計画にジェンダーフリーという文言を使用させない」、猪口邦子議員が「ジェンダー概念に執着」とターゲットを明示し、「安倍晋三官房長官山谷えり子内閣府政務官でチェック」できるように関係省庁、議員に積極的に働きかける」としている。

報道特集より

 協会が安倍氏と山谷氏の二人を、「ジェンダー」つぶしのために、いわば政治的なコマとして動かそうというのである。なお、山谷氏が統一協会の丸抱えに近い特別な政治家であることははっきりしている。

takase.hatenablog.jp

 05年5月の自民党の「過激な性教育ジェンダーフリー教育を考えるシンポジウム」には安倍氏の側近、萩生田光一が司会として参加。会議を盛り上げている。みな無茶苦茶なことを発言しているが、強くジェンダーフリーに反対し、時代の潮流に逆らおうとしている。

安倍氏。そんなコンセンサスは生まれていないでしょう

山谷えり子氏。これに続けて、「性差否定のジェンダーフリー教育というのが教育現場で全国に広がっているということがとても気になっていた。ジェンダーが誤解と混乱を招くなら、そんな訳のわからない言葉を(基本計画に)入れる必要はない。」などと発言

萩生田光一氏。ジェンダー教育が大学でも増えているが、「家族主義の崩壊をもくろむような意図が見え隠れする」という。「離婚・不倫・中絶のすすめ」など出てくるはずないだろう。

 結局、計画に「ジェンダー」の単語自体は入ったものの、「行き過ぎた性教育」などは「極めて非常識である」とされた。

 その後は、「逆流」が強くなり、選択制夫婦別姓さえ自民党が封印して現在にいたっている。

 6月下旬、参院選候補者に対する朝日新聞と東大谷口将紀研究室の共同調査の結果が公表されたが、性の多様性に関して、自民党候補が極端に「慎重」というか反動的であることが分かった。

朝日新聞より

 憲法改正など他のイシューでは自民を上回る「保守性」を見せる維新の党でさえ、同性婚を認めることに8割が賛成しているのに対し、自民党は2割もいかない。

 ジェンダーの多様性の理解にかんしてだけこんな傾向がでるのは異様である。外からの強い政策的な働きかけを考えざるをえない。この問題については、統一協会だけでなく神道政治連盟とそのバックアップを受ける日本会議も強力に活動を展開している。(韓国ファーストの統一協会と日本の右翼がなぜ提携できるのかは不思議だが、さまざまな識者が書いているのでそちらにゆずる。)


 番組では、統一協会の信者が学校の性教育の現場に浸透している実態を取材して戦慄させる内容だった。

 統一協会は、自民党を政策実現マシンにしようとしているが、この危険な「売国的」実態を解明するには、今の自民党の「点検」では全く不十分で、自民党の「解党的」再生が必要だし、その前に統一協会の政界「元締め」だった安倍元首相と協会の関係の徹底した解明が不可欠だ
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 さて、以前からやってみたかった山形をぐるっと回る旅をこのほど敢行します。

 ただタラタラとあてもなく旅するのも魅力的だが、ちょっとかっこつけてイザベラ・バードの足跡を辿るというのもやってみようと思う。

 イザベラ・バード(1831-1904)は英国人の旅行家。1878年明治11年、47歳)春来日し、6月中旬から3ヶ月かけて東北・北海道を旅した。供はイトウという18歳の通訳だけ。

バード(左)とイトウ(伊藤鶴吉)

 バードのこの旅についてはこのブログで10回以上触れているが、日本全体が過渡期だった時代、西南戦争が起きた翌年の明治に、都市の文明開化とは無縁な「奥地」を旅し、平和の里があったと書いている。

takase.hatenablog.jp

 イザベラ・バードは新潟から峠を超えて小国から山形県に入り、置賜盆地(米沢平野)を横断し、北上して村山地方へ、さらに新庄から金山を経て秋田県へと向かった。

 私の地元の置賜を旅したさいの文章が知られている。

 米沢平野は、南に繫栄する米沢の町があり、北には湯治客の多い温泉場の赤湯があり、まったくエデンの園である。「鋤で耕したというより鉛筆で描いたように」美しい。米、綿、とうもろこし、煙草、麻、藍、大豆、茄子、くるみ、水瓜、きゅうり、柿、杏、ざくろを豊富に栽培している。実り豊かに微笑する大地であり、アジアのアルカデヤ(桃源郷)である。自力で栄えるこの豊沃な大地は、すべて、それを耕作している人々の所有するところのものである。彼らは、葡萄、いちじく、ざくろの木の下に住み、圧迫のない自由な暮らしをしている。これは圧政に苦しむアジアでは珍しい現象である。それでもやはり大黒(ダイコク)が主神となっており、物質的利益が彼らの唯一の願いの対象となっている。平凡社P218)

 「エデンの園」とはすごい。面はゆいが、これはお世辞ではない。

イザベラ・バード『日本奥地紀行』

 民俗学者宮本常一は、バードだけでなく、モースやアーネスト・サトウらも当時の日本のことをとてもほめているが、これはほめているのではなくて、そのままの日本だったと言う。

 

 われわれ、日本に住んでいて、日本の歴史をやっていると物を比較するという面がない。日本の歴史からだけ見ると嫌なことがたくさんあったように見えるし、それをことさらにあげつらった歴史の書物も数多いのです。例えば江戸の終わり頃になると、いたる所で百姓一揆があったと書かれています。しかし江戸時代260年の間に残っている一揆はおよそ1000件くらいなのです。一年にすると4件足らずの非常に少ない暴動ですんでいるのです。(略)

 ディケンズの『二都物語』を読んでいると、ロンドンからドーヴァーまで一人歩きはできない、危険なので馬車に乗らねばならない、とあります、馬車には護衛官がついているわけで、それが当時、世界で一番平和であるといわれていたイギリスの状態なのです。

 ところが日本へやって来ると、『二都物語』が書かれたのは1858年=安政6年とされていますが、その同じ時期に、東海道の女の一人旅はしょっちゅう見られたのです。「こんな平和な国が世界中のどこにあるだろうか」ということをある人が書いているのを読んで、私は非常に感激したことがあるのですが、こういうことは鎖国が始まった頃にはもうそうなっていたのではないか。とにかく、日本の農村というのは、夜、戸締りをしなくても眠ることができる。これは決して明治になってからそうなったのではなくて、江戸時代にすでにそうなっていたのです。宮本常一イザベラ・バードの「日本奥地紀行」を読む』(平凡社)P10-11)

宮本常一イザベラ・バードの「日本奥地紀行」を読む』

 バードの観察は当時の日本人についてのステレオタイプを打ち壊す。

 私は、これほど自分の子どもをかわいがる人々を見たことがない。(略)

 父も母も自分の子に誇りをもっている。見て非常におもしろいのは、毎朝六時ごろ、十二人か十四人の男たちが低い塀の下に集まって腰を下ろしているが、みな自分の腕の中二歳にもならぬ子どもを抱いて、かわいがったり、一緒に遊んだり、自分の子どもの体格と知恵を見せびらかしていることである。(略) 彼ら(子どもたち)はとてもおとなしくて従順であり、喜んで親の手伝いをやり、幼い子どもに親切である。私は彼らが遊んでいるのを何時間もじっと見ていたが、彼らが怒った言葉を吐いたり、いやな目つきをしたり、意地悪いことをしたりするのを見たことがない。(P131)


 当時の日本の男たちはみな「イクメン」だったというのだ。そして、日本人の子どもへの愛情を、英国の子育てを批判しながら、とても好意的に描いている。

 バードの紀行を読むのは時間の旅にもなる。

 私の今回の山形旅の交通手段は主に自転車だが、バスや電車にも乗りながら無理をしないで楽しみたい。

 というわけで、しばらくブログをお休みします。みなさま、お元気で。なお、旅の様子はFacebookで報告するので、よろしければご覧下さい。

 

 当時の

藤沢周平のいろり端の情景

 明後日はお彼岸だ。日が短くなったわけである。きょう、八百屋に柿が並んでいるのに気づいた。稲刈りが終わって、少しづつ冬に向かう。

 23日から初候「雷乃収声(かみなり、すなわちこえをおさむ)」。入道雲からイワシ雲へと空も変わる。次候「蟄虫坏戸(むし、かくれてとをふさぐ)」が28日から。虫たちが土の中へと潜っていく。10月3日からが末候「水始涸(みず、はじめてかるる)」。田んぼから水が抜かれて涸れる季節。
・・・・・・
 この間の気になるニュースを駆け足で。

 ロシアが占領する東部と南部で、親ロシアは派勢力が20日「ロシアへの編入」を問うための住民投票を実施すると発表した。投票はルハンスク州、ドネツク州と南部ヘルソン州のロシア軍支配地で今月23日から27日にかけて行うという。急である。

 この住民投票の話は以前からあったが、棚上げになっていた。今回のこの決定は、ロシアの軍事的劣勢による方針転換だと見られている。

 元大統領のメドベージェフ氏はSNSで「ロシア領土への侵犯は犯罪で、ロシアは自衛のためにあらゆることをする力を行使できる」と脅迫に近い文言を連ねている


 つまり、住民投票の結果、「編入」となればそこはロシア領となってしまい、ウクライナからの攻撃を「ロシア領土に対する攻撃」とみなすというのだ。

 欧米はウクライナにロシア領に攻撃しないよう求め、ロシア領にまで届く長距離砲の供与も渋ってきた経緯がある。プーチンがこれを逆手にとって、これ以上の劣勢を食い止め、ウクライナの攻撃を抑えるために一気に「編入」にもっていこうとしているのだろう。

 追い込まれたときのプーチンは何をするかわからないからあぶないぞ。
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 防衛省ミャンマー軍の留学生受け入れを来年度から停止するという。

 防衛省は現在、17カ国から計192人の留学生を防衛大学校や各自衛隊幹部学校などで受け入れており、ミャンマーからはクーデター後も幹部や幹部候補生を受け入れていた。

 停止の理由について、7月に民主派の4人の死刑を執行したと報じられたことから「ミャンマーとの防衛協力・交流を現状のまま継続すること適切でないと判断した」という。

 遅きに失したが、これまでの対ミャンマーの無原則な対応が批判されたことがこの変更の背景にある。批判、抗議は無駄だと思う人がいるが、いろんな条件の組み合わせで動きをもたらすこともある。あきらめずに声を上げ続けよう。
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 日朝平壌宣言から20年の17日、拉致問題にかかわるある団体が「拉致被害者全員奪還デモ」を実施した。その動画が知り合いのFBにアップされていたので見ると、日朝平壌宣言を破棄せよ!」シュプレヒコール

(kazuo Inagawa氏FBより)

 横断幕には「(拉致被害者を)還さなければ戦争だ!」、「自衛権の行使を」などとある。これは「外交」とは別次元の「解決方法」だ。

 金正恩を罵倒し、戦争してでも奪還するぞ!と主張するのは勇ましくて気持ちいいかもしれないが、これでほんの少しでも拉致問題が進展すると本気で思っているのだろうか。

 こういう路線に政府が引っ張られた(安倍氏らが煽った面もある)からこそ、20年も何の成果もなく時間を無駄にしたのではないか。

 

takase.hatenablog.jp

  頭を冷やし、北朝鮮とのより良い交渉ルートを開拓し、水面下もふくめて地道に外交努力をするしかない。方針を転換できる政治家よ出でよ。

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 最近は家族団らんなどという言葉をとんと聞かなくなった。

 藤沢周平が自らの生い立ちを振り返った『半生の記』を繰っていたら昔の田舎のいろり端の様子が描写されていた。心温まるものを感じ、情景を想像した。

 

 そのころは茶の間にある大きないろりが、家の中心としてどっしりと構えていた。いま、しいて家の中の中心をもとめればテレビのある居間ということになるだろうが、人があつまっても会話が少ないから、テレビにむかしのいろりのような中心性をもとめることは無理のように思える。いまは一軒の家に、人人はばらばらに住んでいる。農村といえども例外ではない。

 むかしは大人も子供もなにかといえばいろりのそばにあつまった。いろりはあたたかくて明るい場所だった。停電の夜は、当然いろりのそばは家族で混み合い、人人は炉に燃える火に顔と胸を照らされながら、いろいろな話をかわした。そしてそういう夜は、子供が親にむかし話をせがむいい機会でもあった。母親は栗をゆでながら哀れぶかいママ子の話とか、ある雨の夜に、貧しいひとり者の百姓の家に一夜の宿をもとめてきた若くてきれい女、じつは人に変身した蛙の話などをした。

 母親のむかし話はたいていは歌まじりだった。変身蛙の話もそうで、その家の嫁になって何年かたち、子供を三人も生んで気がゆるんだものか、ある日居眠りをして蛙の正体をみられてしまった女は、泣く泣く夫と子供にわかれて山奥のふるさとに帰ってしまった。しかし女は、田植えどきになると子供たちに呼びもどされて、一族や仲間をつれて山から里に手伝いにくる。

 そして大勢の蛙の助っ人たちと一緒に、働きながら声をあわせて陽気にうたうのである。

アオジ ムラサメ ヒデリの田ァは
稲にならねで 米になァる

 まるで井上ひさしさんの戯曲のようだが、アオジ、ムラサメ、ヒデリは蛙のかあちゃんが生んだ子供たちの名前である。その歌があまりに陽気でにぎやかなのに村人は失笑するが、やがて秋になると、その家の稲田には穂の粒がひょうたん型をした見たこともない大粒の稲がみのり、殻を割ると中からざらざらと米がこぼれ落ちて、家は大金持ちになるのだ。

 父親も、せがめばむかし話をすることもあったが、レパートリィは貧しくて、「猿の嫁」と貧しい老夫婦が吹くジヨッコ(家ネズミ)のおかげで金持ちになる話の二つぐらいだった。それでも父母が語るむかし話の別世界には、私たちの空想を無限に搔き立てる力があり、私と妹は、母親がいそがしくてむかし話どころではないというときは、聞きあきた父親の「猿の話」を聞いた。

 そういう夜は、私は少しも眠くならず、話が終わるともう一度とせがんできりがないので、しまいにはさあ寝ろと寝部屋に追いやられるのがつねだった。

 

 藤沢周平がこれを書いたのは1992年なので、テレビが中心と書いている。今では「ばらばら」の度合いがはるかに進んで、食事も各自が勝手にとる家庭は多いし、一緒に食卓を囲んだとしても、それぞれがスマホを見ながら会話もなく咀嚼運動をやっていたりする。テレビならとりあえずみなが同じものを見ているが、スマホは各自が別の世界に向き合っている。

 いろりの回りの情景は、現代の生活がどこかおかしいと感じさせるに十分だ。藤沢周平が父母のむかし話をよく覚えているのは、ゆったりしながらもそれほどに濃密な時間だったのだろう。

DNAのパスポート

 たいした読書家でもないのに、欲しい本を(主に古書で)どんどん買ってしまうものだから、いきおい積読(つんどく)が増える。

 老い先の短さを考えながら読んでいない(または読んだのを忘れた!)本の山をながめると、「学成りがたし」という言葉がしみじみと迫ってくる。

 『香川紘子詩集』という本に目が留まって拾い上げた。これをなぜ、いつ買ったのかも忘却の彼方だが、ページをめくるとおもしろい詩に出会った。

DNAのパスポート

太古から
豊かな生命を育んできた海に
背を向けて
変わり者の魚が一匹
陸にあがる冒険を敢行したのは
三億五千万年前のことだった

それから二億年が過ぎて
ざわめく巨大な羊歯の葉越しに
日毎夜毎に仰ぐ
空の輝きに魅せられた
爬虫類の夢から
始祖鳥が出現した

気の遠くなるくらい遥かな
生命の系統樹の梢で
世紀末の強風に
吹きちぎられそうに震えている
私たちも また
羊水の海から誕生し
この地上で
這い 立ち 歩み
やがて
魂だけの身軽さで去る
DNAのパスポートの所持者なのだ

 

 香川紘子は、「解説」によれば、1935年兵庫県飾磨町に生まれ、脳性麻痺の重度心身障碍児だったため戦時中は就学せずに家で過ごした。
 44年、父の転勤で広島市に移り、翌年原爆に被爆。その翌月、祖母が原爆症で亡くなると初七日の夜、第二次枕崎台風による洪水で家財流出・・。と大変な少女期だったようだ。 

 15歳のとき中学生新聞の詩壇で第一席入選し、その後、試作に熱中。たちまち詩壇の常連となり、「十代のチャンピオン」として寺山修司らと並び称される存在になる。
 54年、19歳で「原稿の下書きを自筆で書けるようになる」と年譜にあるように、身体の障害を抱えながらの試作を続けてきた。

 寡聞にして知らなかったが、有名な詩人であるらしい。

 むかし、好きな人に「あなたは、ほんとに散文的な人ね」と言われたことがあるが、たぶんそれは誉め言葉じゃないな。散文の反対は韻文でポエムだから、俺ってポエムを感じさせないんだ、と理解した。そういうわけで(笑)、詩とは縁が浅いので、香川紘子の名前も詩も新鮮である。

 利己的な遺伝子』で知られる進化生物学者リチャード・ドーキンスの「生物は遺伝子によって利用される"乗り物"に過ぎない」は、主役の遺伝子から生命を見ているが、香川紘子の「DNAのパスポート」は生命、つまり「私」の側から、遺伝子を、旅をつづけさせてくれる旅券に見立てている。

 そしてその旅券は、太古から生命が連綿と受け継いできたものであることに思いを馳せている。わたしたちは生命樹の梢の葉の一つなのだ。

 生命の荘厳な連続性への自覚がさわやかさを醸し出す、そんな印象を受ける詩である。

 

 この詩で思い出したのが、はやり重い障害をもつ海老原宏美さんだ。

海老原宏美さん(NHKハートネットTVより)

  いまどうしているかなと思ってネット検索すると、昨年末に亡くなっていることを知って驚いた。
https://www.nhk.or.jp/heart-net/article/654/

 数年前、彼女の生き方を描いた映画を観、講演を聴き、本を読んで大きな感銘を受けた。もう一度お話を聴きたいと思っていたのでとても残念だ。ご冥福を心からお祈りします。

takase.hatenablog.jp

 海老原宏美さんの『まぁ、空気でも吸って』という本に収められた「私の障害のこと」という文章を読んだとき、こんな考え方もあるのか!と衝撃を受けた。

 私は、脊髄性筋萎縮症Ⅱ型(SMA type2)という、ちょっと珍しい障害をもって生まれました。「type2」という響きがカッコイイと思っています。一説には、この病気の発症率は四万人に一人とも言われています。両親共に原因となる遺伝子をもっていて、それを一つずつもらい受け二つそろったときに、めでたく発症します。ということは、祖先たちが代々、この遺伝子を受け継ぎ保因者として生きてきたからこそ私もそれを引き継いだわけで、それは一体、何百年、何千年さかのぼる旅だったのだろう? と思うと、この障害が愛おしくてたまりません。(略)

 どんな障害かいうと、人が身体を動かすときには、脳から電気信号を出し、それが神経を通って筋肉に伝わり、筋肉が「ぴょん」となるわけですが、SMAは、その通り道である神経の元にある運動神経細胞が、なぜかよくわからないタイミングで、必要以上にアポトーシス(自殺)を起こし、電気信号が筋肉に届かなくなってしまう、という病気です。ごく簡単に言うと、そういう感じ。アポトーシスが起こるたびに、筋萎縮が進むという進行性の障害で、小さい頃はつかまり歩きもできましたが、今は呼吸さえ自分ではままならない全身性障碍者をやってます。自殺防止キャンペーンを、こっちでも開催したいです。

 

 自分が生まれつき負った障害すらも、無数の「ご先祖」から受け継がれてきた生命の一部として愛おしんでいる

 9月は自殺対策強化月間で、さまざまなキャンペーンが行われている。

(テレ朝モーニングショーより)

 「いのちの電話」など、自殺の直前に思いとどまらせる窓口を増やしたりといった施策も大事だが、これはいわば土俵際の応急処置。

 本来はそもそも「死にたい」と思わない、「生きているってすばらしい」と思うように生きるにはどうするかが問題だ。

 海老原宏美さんの哲学にその重要なヒントがあると思っている。
 これについてはまた改めて書こう。

香川紘子詩集(右)と海老原宏美『香川紘子詩集(右)と海老原宏美『まぁ、空気でも吸って』