人々が通りを掃き清めた時代

 中東の旅から。
 どの市場にもハーブや香料を売る一角があって、強い香りを放っている。それぞれの店がお客さんの目を引くためのディスプレイをしている。緑はたぶんピスタチオだろう。こんな遊び心が楽しい。

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 22日(金)は私の誕生日(66歳)で、フェイスブックが勝手にきょうは誰々さんの誕生日ですと告知してくれるので、私にもいろんな方から「おめでとう」メッセージが届いた。
 恥ずかしいし、みんなに返信するのもおっくうなので、今度から誕生日を非公開にしようかなとも思っている。ただ、メッセージをくれた中に、30年前、特派員でマニラに駐在していたとき雇っていた現地のスタッフ(女の子)がいて、「I super miss you!(めっちゃ、懐かしい)あなたはこれまでで最高のボスでした。あの楽しい日々が忘れられません」などと書いてきて、当時の思い出にひたった。
 フェイスブックはすごいな。時空を超えて過去の人にもつながることができる。
 誕生日というのは、ここまで生きてこれたことへの感謝を本人がお世話になった人、とくに家族にする日だと思う。そこで母親に電話。話すうち、「お前が生れた年は、記録的な豪雪だった」という思い出話になった。お産で里帰りするのに積雪で自動車が使えず難儀したという。当時、初産は嫁の実家でするもの。母は今の山形県高畠町糠野目の出だった。高世の家から宮内(みやうち)駅まで歩き、列車で糠野目(ぬかのめ)駅に着いて、そこから実家までまた歩いたという。それぞれ駅と家との間をあるくと、晴れた日で20分から25分かかる。そこを大きなお腹の妊婦が、雪で足もとがおぼつかないなか歩くのだから大変だったろう。父親の一番下の弟、T叔父さんが付き添ってくれたそうだ。大したことのないエピソードだが、初めて聞いて感じるものがあった。これも誕生日の収穫である。

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 さて、先日、かつて道路がみんなの公共物だった時代があったという話を石牟礼道子さんの文章で紹介した。
思想史家の渡辺京二さんの『逝きし世の面影』には、明治時代初期に奥州から蝦夷地にまで旅をした英国の旅行家、イザベラ・バードについて以下の記述がある。
 「バードは日光の町に立ち寄ったとき、街路が掃き清められてあまりにも清潔なので、泥靴でその上を歩くのが気がひけたと言っている。彼女は新潟の街でもおなじように感じた。すなわち、“日本人の清潔”の背後にあったのは、住民自身が鏡のように街路を掃き清めるという、前工業化社会の生活習慣だったのである。」(P135)
 では、なぜ住民自身が街路を掃き清めるのか。自動車が主役で歩行者が邪魔者となりはてた近代の「道路」とは違い、道は住民の暮らしの場なのだった。
 「衆目が認めた日本人の表情に浮かぶ幸福感は、当時の日本が自然環境との交わり、人びと相互の交わりという点で自由と自立を保証する社会だったことに由来する。浜辺は彼ら自身の浜辺であり、海のもたらす恵みは寡婦も老人も含めて彼ら共同のものであった。イヴァン・イリイチのいう社会的な『共有地』(コモンズ)、すなわち人びとが自立した生を共に生きるための交わりの空間は、貧しいものも含めて、地域のすべての人びとに開かれていたのである。」(P131)
道にかぎらず、人びとはみずからが生活する環境を、彼ら自身のものと感じていた。そこにこそ、「貧しい」けれど「しあわせ」を保証した前近代文明の重要な特徴があると思われる。
(つづく)