ジェンダー問題で自民に食い込む統一協会

 しばらく旅に出て、ブログをお休みするが、これだけは書いておきたい。

 統一協会(これから統一教会ではなく「協会」とする)が、自民党を支援した動機が協会にお墨付きを得るという組織防衛のためだけでなく、協会に都合のよい政策を施行させるためだったことが明瞭になってきている。これは、協会の異様でファナティックな目的をこの世に現実化させようとするもので、日本にとってきわめて危険である。

 その一例を先日の『報道特集』が追及していた。

 05年、第三次小泉内閣猪口邦子氏が「男女共同参画担当大臣」になったころは、自民党内でも「ジェンダーフリー」(職業や家庭で男女の性差にとらわれず自由に生活する)の機運が高まり、「男女参画第二次5カ年計画」が策定されようとしていた

猪口邦子氏(報特より)

 これに危機感をもったのが統一協会だった。鈴木エイト氏提供の当時の内部文書には「第二次5カ年計画にジェンダーフリーという文言を使用させない」、猪口邦子議員が「ジェンダー概念に執着」とターゲットを明示し、「安倍晋三官房長官山谷えり子内閣府政務官でチェック」できるように関係省庁、議員に積極的に働きかける」としている。

報道特集より

 協会が安倍氏と山谷氏の二人を、「ジェンダー」つぶしのために、いわば政治的なコマとして動かそうというのである。なお、山谷氏が統一協会の丸抱えに近い特別な政治家であることははっきりしている。

takase.hatenablog.jp

 05年5月の自民党の「過激な性教育ジェンダーフリー教育を考えるシンポジウム」には安倍氏の側近、萩生田光一が司会として参加。会議を盛り上げている。みな無茶苦茶なことを発言しているが、強くジェンダーフリーに反対し、時代の潮流に逆らおうとしている。

安倍氏。そんなコンセンサスは生まれていないでしょう

山谷えり子氏。これに続けて、「性差否定のジェンダーフリー教育というのが教育現場で全国に広がっているということがとても気になっていた。ジェンダーが誤解と混乱を招くなら、そんな訳のわからない言葉を(基本計画に)入れる必要はない。」などと発言

萩生田光一氏。ジェンダー教育が大学でも増えているが、「家族主義の崩壊をもくろむような意図が見え隠れする」という。「離婚・不倫・中絶のすすめ」など出てくるはずないだろう。

 結局、計画に「ジェンダー」の単語自体は入ったものの、「行き過ぎた性教育」などは「極めて非常識である」とされた。

 その後は、「逆流」が強くなり、選択制夫婦別姓さえ自民党が封印して現在にいたっている。

 6月下旬、参院選候補者に対する朝日新聞と東大谷口将紀研究室の共同調査の結果が公表されたが、性の多様性に関して、自民党候補が極端に「慎重」というか反動的であることが分かった。

朝日新聞より

 憲法改正など他のイシューでは自民を上回る「保守性」を見せる維新の党でさえ、同性婚を認めることに8割が賛成しているのに対し、自民党は2割もいかない。

 ジェンダーの多様性の理解にかんしてだけこんな傾向がでるのは異様である。外からの強い政策的な働きかけを考えざるをえない。この問題については、統一協会だけでなく神道政治連盟とそのバックアップを受ける日本会議も強力に活動を展開している。(韓国ファーストの統一協会と日本の右翼がなぜ提携できるのかは不思議だが、さまざまな識者が書いているのでそちらにゆずる。)


 番組では、統一協会の信者が学校の性教育の現場に浸透している実態を取材して戦慄させる内容だった。

 統一協会は、自民党を政策実現マシンにしようとしているが、この危険な「売国的」実態を解明するには、今の自民党の「点検」では全く不十分で、自民党の「解党的」再生が必要だし、その前に統一協会の政界「元締め」だった安倍元首相と協会の関係の徹底した解明が不可欠だ
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 さて、以前からやってみたかった山形をぐるっと回る旅をこのほど敢行します。

 ただタラタラとあてもなく旅するのも魅力的だが、ちょっとかっこつけてイザベラ・バードの足跡を辿るというのもやってみようと思う。

 イザベラ・バード(1831-1904)は英国人の旅行家。1878年明治11年、47歳)春来日し、6月中旬から3ヶ月かけて東北・北海道を旅した。供はイトウという18歳の通訳だけ。

バード(左)とイトウ(伊藤鶴吉)

 バードのこの旅についてはこのブログで10回以上触れているが、日本全体が過渡期だった時代、西南戦争が起きた翌年の明治に、都市の文明開化とは無縁な「奥地」を旅し、平和の里があったと書いている。

takase.hatenablog.jp

 イザベラ・バードは新潟から峠を超えて小国から山形県に入り、置賜盆地(米沢平野)を横断し、北上して村山地方へ、さらに新庄から金山を経て秋田県へと向かった。

 私の地元の置賜を旅したさいの文章が知られている。

 米沢平野は、南に繫栄する米沢の町があり、北には湯治客の多い温泉場の赤湯があり、まったくエデンの園である。「鋤で耕したというより鉛筆で描いたように」美しい。米、綿、とうもろこし、煙草、麻、藍、大豆、茄子、くるみ、水瓜、きゅうり、柿、杏、ざくろを豊富に栽培している。実り豊かに微笑する大地であり、アジアのアルカデヤ(桃源郷)である。自力で栄えるこの豊沃な大地は、すべて、それを耕作している人々の所有するところのものである。彼らは、葡萄、いちじく、ざくろの木の下に住み、圧迫のない自由な暮らしをしている。これは圧政に苦しむアジアでは珍しい現象である。それでもやはり大黒(ダイコク)が主神となっており、物質的利益が彼らの唯一の願いの対象となっている。平凡社P218)

 「エデンの園」とはすごい。面はゆいが、これはお世辞ではない。

イザベラ・バード『日本奥地紀行』

 民俗学者宮本常一は、バードだけでなく、モースやアーネスト・サトウらも当時の日本のことをとてもほめているが、これはほめているのではなくて、そのままの日本だったと言う。

 

 われわれ、日本に住んでいて、日本の歴史をやっていると物を比較するという面がない。日本の歴史からだけ見ると嫌なことがたくさんあったように見えるし、それをことさらにあげつらった歴史の書物も数多いのです。例えば江戸の終わり頃になると、いたる所で百姓一揆があったと書かれています。しかし江戸時代260年の間に残っている一揆はおよそ1000件くらいなのです。一年にすると4件足らずの非常に少ない暴動ですんでいるのです。(略)

 ディケンズの『二都物語』を読んでいると、ロンドンからドーヴァーまで一人歩きはできない、危険なので馬車に乗らねばならない、とあります、馬車には護衛官がついているわけで、それが当時、世界で一番平和であるといわれていたイギリスの状態なのです。

 ところが日本へやって来ると、『二都物語』が書かれたのは1858年=安政6年とされていますが、その同じ時期に、東海道の女の一人旅はしょっちゅう見られたのです。「こんな平和な国が世界中のどこにあるだろうか」ということをある人が書いているのを読んで、私は非常に感激したことがあるのですが、こういうことは鎖国が始まった頃にはもうそうなっていたのではないか。とにかく、日本の農村というのは、夜、戸締りをしなくても眠ることができる。これは決して明治になってからそうなったのではなくて、江戸時代にすでにそうなっていたのです。宮本常一イザベラ・バードの「日本奥地紀行」を読む』(平凡社)P10-11)

宮本常一イザベラ・バードの「日本奥地紀行」を読む』

 バードの観察は当時の日本人についてのステレオタイプを打ち壊す。

 私は、これほど自分の子どもをかわいがる人々を見たことがない。(略)

 父も母も自分の子に誇りをもっている。見て非常におもしろいのは、毎朝六時ごろ、十二人か十四人の男たちが低い塀の下に集まって腰を下ろしているが、みな自分の腕の中二歳にもならぬ子どもを抱いて、かわいがったり、一緒に遊んだり、自分の子どもの体格と知恵を見せびらかしていることである。(略) 彼ら(子どもたち)はとてもおとなしくて従順であり、喜んで親の手伝いをやり、幼い子どもに親切である。私は彼らが遊んでいるのを何時間もじっと見ていたが、彼らが怒った言葉を吐いたり、いやな目つきをしたり、意地悪いことをしたりするのを見たことがない。(P131)


 当時の日本の男たちはみな「イクメン」だったというのだ。そして、日本人の子どもへの愛情を、英国の子育てを批判しながら、とても好意的に描いている。

 バードの紀行を読むのは時間の旅にもなる。

 私の今回の山形旅の交通手段は主に自転車だが、バスや電車にも乗りながら無理をしないで楽しみたい。

 というわけで、しばらくブログをお休みします。みなさま、お元気で。なお、旅の様子はFacebookで報告するので、よろしければご覧下さい。

 

 当時の