『裸のムラ』に見る日本社会

 マキャベリがこんなことを言っている。

ニッコロ・マキャヴェッリ Wikipediaより

《また、恐怖にかられて譲歩して、戦争を回避しようとしても、結局のところ、戦争しなければならなくなるのがおちだからだ。というのも、万一おじけづいて譲歩したことを相手に見せれば、当の相手はそれだけで満足するどころか、さらにずうずうしくなって、これまで以上のものを取ってやろうとするし、腰抜けだとみてとれば、それだけ図にのって強い要求を持ち出してくるものだからである。

 一方、君が弱虫で腰抜けだということがさらけだされると、たとえ君の見方でも、ますます冷淡な態度をとるようになるだろう。

 しかしながら、君が敵の企みを見抜いたら、軍事力が敵のそれに下まわるような場合でも、すぐさまこれと戦う準備をしなければならない。そうすれば、敵も君のことを見なおしはじめるだろうし、まわりの君主たちも君を尊敬するようになろう。君が武器をなげだしてしまえば、とうてい君を助ける気にならない者でも、君が武器を手にして雄々しく立ちあがれば、援助に駆けつけるようにならないとは限らない。》(『ディスコルシ』;引用は『法と哲学』8巻頭言より)

 ウクライナのことやら、日本の防衛のことやら、いろいろ想像をかきたてられる言葉だ。
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 先日、映画『裸のムラ』ポレポレ東中野で観てきた。

 石川県知事選にまつわる権力移譲劇のドタバタを背景に、車のバンをすみかに自由な暮らしを送るバンライファーの一家、日本の同調圧力に苦労するムスリムの一家を配して、日本という国の「空気」のありようを描いている。

『裸のムラ』

 監督は富山市議会の不正を描いた問題作『はりぼて』の五百旗頭(いおきべ)幸男さん。前作を機に富山のテレビ局を辞め、石川テレビに移って取材した作品だ。

 バンライファームスリムの家族がとても魅力的だった。
 ムスリムの家族は、父親が日本人で、インドネシア人女性と結婚するにあたってイスラム教に改宗。3人の子どもがいる。

インドネシア人(妻)のヒクマさん。日本国籍なんか取らないよ、と

 その妻の語る言葉が、いちいちグサッとくる。

 なぜ日本国籍を取らないかとの問いに
「日本国民になっても、私を日本人とは思ってくれないでしょ。顔で判断するから」(表現は正確ではないが)

 ウクライナ戦争をテレビニュースで観て
パレスチナイスラエルが攻め込んできても助けてくれないでしょ。パレスチナウクライナと同じなのに」

 また、日本の同調圧力
「(ムスリムの社会は)日本ほどきびしくないよ」

 次女は小学4年生のとき、ヘジャブ(女性が頭や体を覆う布)をつけて登校しはじめ、今も常時つけている。それは、ヘジャブをしていない彼女を認めてくれるひとより、ヘジャブをしている彼女を認めてくれる人を友だちにすると決意したからだった。

 また、日本人の夫は、公安調査庁からムスリム仲間の情報を求められ、他の宗教だったらスパイをせよと求めないはずだ、なぜイスラム教だけ、と憤って拒否したという。

 政治家のドタバタには大いに笑わされたが、日本社会の「忖度」する空気に不気味さを感じ、その中に自分もいて加担しているのではないかと自問するうち、だんだん怖くなってくる。

 

 上映後、五百旗頭監督のトークショーがあった。

五百旗頭監督

 「金沢と東京で同時に封切りだったが、東京では森喜朗元首相が登場しただけで会場に笑いが起きた。金沢ではまったく笑いがなかった」という。

 観る人によってさまざまな見方ができる快作だった。