関東大震災時の朝鮮人虐殺に新資料

 9月1日で1923年の関東大震災から101年。朝鮮人らが虐殺された史実を否定する言動がやまず、これを行政が後押ししている。

 小池百合子東京都知事は今年も朝鮮人犠牲者の追悼式典に追悼文を送らない。2017年から8年連続となる。政府も朝鮮人虐殺を確認できないとする立場だ。

政府の中央防災会議が09年にまとめた報告書は、「官憲、被災者や周辺住民による殺傷行為が多数発生した。虐殺という表現が妥当する例が多かった」「殺傷の対象となったのは、朝鮮人が最も多かったが、中国人、内地人も少なからず被害にあった」と記す。233人の朝鮮人が殺され、367人が起訴された事件の詳細を記した司法省の当時の記録などを根拠資料としている。

 だが、政府は「報告書は有識者が執筆したもので、その記述の逐一について政府としてお答えすることは困難」との立場だ。15年2月に「調査した限りでは、政府内に事実関係を把握することができる記録が見当たらない」とする答弁書閣議決定している。 

 野党議員らは昨秋の臨時国会で様々な記録を示しながら、政府の認識を相次いでただした。閣僚らは「政府内に事実関係を把握できる記録が見当たらない」という従来の立場を維持しつつ、虐殺に関する文書が「独立行政法人国立公文書館」や「防衛研究所戦史研究センター史料室」などにあることを認めた

 「政府は10年ほど同様の答弁を続けてきたが、この1年でその矛盾が露呈した。史実を認めないような動きが相次いだことで、皮肉なことに、一般にはあまり知られていなかった朝鮮人虐殺に注目が集まった面もある」。虐殺否定論を検証するノンフィクションライターの加藤直樹さんは言う。》(朝日新聞1日)

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 そんな中、新たな資料も相次いで「発掘」された。昨年は二つの公的資料が明らかになった。

朝日新聞

「陸軍の熊谷連隊区司令部(埼玉県)が作成した「関東地方震災関係業務詳報」関東大震災3日後の1923年9月4日夜、保護のため警察に移送中の朝鮮人四十数人が、熊谷市内で殺されたと記録。「(朝鮮人が)夜に入ると共に殺気立てる群集の為めに、久下、佐谷田及熊谷地内に於て、悉く殺さる」「鮮人(朝鮮人の蔑称)虐殺事件」「不法行為と表現しています。

 もう一点は、神奈川県知事による内務省警保局長あての1923年11月の報告書。県内で起きた朝鮮人への殺人57件を含む59件の殺傷事件で殺された145人のうち14人の名前が書かれている。姜徳相滋賀県立大名誉教授(故人)が生前に入手していたものです。」(北野隆一氏のFBより)

 公文書で「鮮人虐殺事件」と記載するほど大規模で悲惨な事態だったのである。

 市井の多くの人も日記などに見聞きした事実を書き残している。

 今の墨田区に住んでいた社会学者の清水幾太郎は、市川の国府台(こうのだい)に移動するよう警察に告げられた。国府台には陸軍野戦重砲兵第一連隊や第七連隊があり、兵舎で急場をしのぐことができた。そこで清水が見た光景は―

「夜、芝生や馬小屋に寝ていると、大勢の兵隊が隊伍を組んで帰って来ます。尋ねてみると、東京の焼跡から帰って来たと言います。私が驚いたのは、洗面所のようなところで、その兵隊たちが銃剣の血を洗っていることです。誰を殺したのか、と聞いてみると、得意気に、朝鮮人さ、と言います。私は腰が抜けるほど驚きました。朝鮮人騒ぎは噂に聞いていましたが、兵隊が大威張りで朝鮮人を殺すとは夢にも思っていませんでした」(私の心の遍歴)

 「日本社会の秘密」を見たことが、清水が社会学者になる重要なきっかけになったという。

 自分の国の過去の失敗を真摯に反省して、もっといい国にしようとすることがほんとうの愛国心だと思うのだが、日本の政府には亡国の民しかいないらしい。

 先日の海外ニュースで、オーストラリアで例年行われているある慰霊式が報じられた。
 太平洋戦争中、オーストラリア南東部のカウラにあった捕虜収容所で、旧日本軍の兵士1100人余りが脱走を図り、監視をしていた兵士に射殺されるなどして231人が死亡した。オーストラリア人も4名死亡した。

当時の捕虜収容所(NHK国際報道)

 この「カウラ事件」から80年となる8月5日、発生時刻の現地時間午前2時前に収容所の跡地で当時の様子が再現され、脱走の合図となったラッパの音が鳴り響いた。

多くの市民が参加して慰霊式が行われた(NHK国際報道)

「夜が明けてからは、日本兵などが埋葬されている墓地で、日本からの参加者などおよそ300人が出席して式典が行われ、慰霊碑に花を供えて兵士たちを追悼しました。

 妻の父親が収容されていたという、広島市の淺田博昭さんは「脱走して捕らえられたとき、殺されると思ったそうだが、オーストラリア軍はそうしなかった。義父はオーストラリアに感謝していて、ここに眠る仲間に会いたいといつも言っていたので、ここに来ることができてうれしい」と話していました。」(NHK

4日夕方、市民らがランタンを持って会場へ

死者と同じ数のランタンに火が灯され、午前2時に当時の再現イベントが行われた


 捕虜の扱いはジュネーブ条約にもとづき、野球や麻雀などのレクリエーションも許され厚遇されていたという。しかし、日本社会の “生きて虜囚の辱めを受けず(戦陣訓)” という考え方から、ほとんど自殺行為となる集団脱走を企てたとされている。

 この慰霊式は深夜をふくめ長時間にわたるにもかかわらず、多くの市民が参加して当時に思いをはせたという。

 全く性格の異なる事案だが、見たくない過去に目を閉じようとする日本の最近の風潮を思うにつけ、見習いたいものだと思った。