朝鮮人虐殺の実態2

 報道写真家の石川文洋さんからお手紙をいただいた。それに写真展の招待券が同封されていた。

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 「80歳の列島あるき旅 石川文洋写真展 フクシマ、沖縄・・・3500キロ」。一昨年から去年にかけて日本列島を縦断したさいに撮った写真を10月3日から12月20日までニュースパーク(日本新聞博物館)で展示するという。

 文洋さんは82歳を過ぎたが、お手紙には、元気で毎日家で(お酒を)飲んでいると書かれてあった。壮健なご様子でなによりです。
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 9月8日のブログで関東大震災の際の朝鮮人虐殺について実態を知ろうと書いた。さまざまな研究があるが、ここでは日本政府が出している公的な事実認定と評価を紹介しよう。

 内閣府ホームページの「防災情報のページ」に載っている「災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 平成20年3月 1923 関東大震災【第2編】」の「第4章 混乱による被害の拡大 第2節 殺傷事件の発生」から何か所か抜粋する。
http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1923_kanto_daishinsai_2/pdf/19_chap4-2.pdf

 《関東大震災時には、官憲、被災者や周辺住民による殺傷行為が多数発生した。武器を持った多数者が非武装の少数者に暴行を加えたあげくに殺害するという虐殺という表現が妥当する例が多かった。殺傷の対象となったのは、朝鮮人が最も多かったが、中国人、内地人も少なからず被害にあった。加害者の形態は官憲によるものから官憲が保護している被害者を官憲の抵抗を排除して民間人が殺害したものまで多様である。また、横浜を中心に武器を携え、あるいは武力行使の威嚇を伴う略奪も行われた。
 殺傷事件による犠牲者の正確な数は掴めないが、震災による死者数の1~数パーセントにあたり、人的損失の原因として軽視できない。また、殺傷事件を中心とする混乱が救護活動を妨げた、あるいは救護にあてることができたはずの資源を空費させた影響も大きかった。自然災害がこれほどの規模で人為的な殺傷行為を誘発した例は日本の災害史上、他に確認できず、大規模災害時に発生した最悪の事態として、今後の防災活動においても念頭に置く必要がある。

 ここでは犠牲者の数を「震災による死者数の1~数パーセント」としている。震災でおよそ10万人が犠牲になったとされるから、虐殺された人の数は千人単位となる。

 《軍や警察の公的記録では作業量が大きかった朝鮮人の保護、収容が強調されるが、特に3日までは軍や警察による朝鮮人殺傷が発生していたことが東京都公文書館所蔵の「関東戒厳司令部詳報」の「震災警備ノ為兵器ヲ使用セル一覧表」(略)から確認できる。
 戒厳司令部が陸軍各部隊からの報告に基づいて作成したこの史料では、軍隊の歩哨や護送兵の任務遂行上のやむを得ない処置として11件53名の朝鮮人殺害が記録されている。一方、警察の記録で警察関係者による朝鮮人殺傷は確認できない。しかし、「兵器使用一覧表」には次のような叙述がある。3日午後に野戦重砲兵第一連隊の兵卒3名が洲崎警察署の要請で巡査5名とともに朝鮮人約30名を移送中、永代橋付近で彼らが逃亡した。隅田川に飛び込んだ17名を巡査の依頼で兵卒が射殺したが、この際飛び込まずに逃亡しようとした他の朝鮮人は「多数の避難民及び警官の為めに打殺せられたり」。これにより、巡査と民間人が共同しての殺傷行動があり、それは警視庁の公刊の記録に記載されなかったことがわかる。》

 軍や警察の記録には、朝鮮人を保護、収容したことが強調され、殺害した事実はごくわずかしか記載されなかったという。

 では自警団など民間人による殺害については―

 《民間人による殺傷行動についての官庁資料で最も網羅的なものは、震災直後に内務大臣を務めた後藤新平の文書中に残る「震災後に於ける刑事事犯及之に関連する事項調査書」》で、1923(大正12)年11月15日現在の調査結果を中心に、司法省が作成したものだ。ただし、《この資料に挙げられた朝鮮人殺傷事件は、「犯罪行為に因り殺傷せられたるものにして明確に認め得べきもの」として起訴された事件だけであり、朝鮮人が受けた迫害としては一部分にとどまる9月2日から6日までに発生した53件の事件で、合わせて朝鮮人233名を殺害し、42名に創傷を負わせたことにより、11月15日現在、367名が起訴されていた。

 《埼玉県と群馬県で警察官による護送中、あるいは警察署内に保護されている朝鮮人を襲撃して殺害した5件(死者約81名、本庄警察署、熊谷町、神保原町、寄居警察署、藤岡警察署)で全関係者を検挙するのではなく、官憲に対して挑戦的であった事件を重点的に検挙・起訴したのである。》

 民間人による殺害についても、「官憲に対して挑戦的であった事件」だけを起訴したという。

 《朝鮮人被殺害者数の全体について、朝鮮総督府の記録によれば、10月22日現在、内務省朝鮮人被殺人員」を約248名と把握していた。しかし、朝鮮総督府東京出張員はこれを前提に「内査したる見込数」として、東京約300、神奈川約180、埼玉166、栃木約30、群馬約40、千葉89、茨城5、長野3の合計約813名を挙げている。(略)内務省の把握が部分的であることは、当時の植民地官僚の目にも明らかだったのである。その後、総督府は震災による朝鮮人の死者・行方不明者を832名と把握して、1人200円の弔慰金を遺族に支給した。(略)この際、死亡が災害の直接の結果か、殺傷事件によるものかは区別していない。しかし、日本人の死者、行方不明者へ一律で配布されたのが御下賜金の1人16円であったことと対比すれば、200円という金額は政府が朝鮮人の被災を特異なものと捉えられていたことを示している。》

 つまり、内務省の挙げた数字は過少だとして、朝鮮総督府の官僚が調べ直し、朝鮮人の虐殺犠牲者数を約832名とした。そして、日本人の震災での死者には16円の「御下賜金」が配布されたのに対して、朝鮮人犠牲者には200円の弔慰金が遺族に支給されている。当時の政府の立場からすれば、あってはならない事態が起き、急いでその収拾にかかったわけである。

(つづく)