1923年(大正12年)9月の関東大震災後に起きた朝鮮人虐殺。
この追悼式に東京都の小池百合子知事は今年も追悼文を送らなかったが、埼玉、千葉の県知事は追悼文を寄せたとニュースになっていた。埼玉、千葉では、式を主催する市民団体が初めて追悼文を依頼し、両県知事が応じたのだという。
埼玉県で大震災後の混乱時に殺害された朝鮮人青年、姜大興(カンデフ)さんの追悼式の実行委は、去年8月の松野博一官房長官の「事実関係を把握することのできる記録が見当たらない」発言に危機感を持ち、大野元裕知事に追悼文を依頼したら、4日の追悼会に「震災で犠牲になられた全ての方々の御霊に、衷心より哀悼の意を捧げます」との追悼文が届いたという。
埼玉県内では、過去に県も関わり虐殺の大規模調査が行われた。さいたま市長は昨年に続いて追悼文を送付。犠牲者の多かった熊谷市、本庄市、上里町では市町長自らが地元の追悼行事に出席して追悼の言葉を述べた。
千葉県の熊谷俊人知事も、実行委の依頼に応じ、1日の追悼式典に初めて追悼文を送った。同じ式典に、船橋、八千代、習志野、市川、鎌ヶ谷の5市長も追悼文を寄せた。
明白な史実を否定する近年の動きに危機感を募らせた市民らが、各地で首長にメッセージを出させる動きを作っている。(朝日新聞20日の記事より)
当時は、新聞が流言飛語を垂れ流して虐殺を後押しする形になったとされている。
ところが、震災翌年の『東京朝日新聞』に、虐殺を反省する投稿が掲載されていたことが19日の記事で紹介されていた。
24年(大正13年)7月24日付の読者投稿欄に載った、当時東京市の職員で都市行政に関わる立場にあった田邊定義さんの「震災供養」と題する投稿―
「よくもあゝまで残虐な行為が我が同胞の手で行はれたもの、何としてあゝまで理性を失ったものかと、残念で堪まらないのは、かの鮮人襲来の蜚語(ひご)から生じた殺傷である」
(避難中に橋が落ちるなどして亡くなった人は)「日本の物質文明の欠陥による犠牲者である」のに対し、「軽率にして而(し)かも狭量な都民の手にかゝつて最期を遂げた人々は、いはば日本の精神文明の欠陥による犠牲者である」。
「この憐むべき犠牲者への何よりの手向けは公私一致、特に当時日本人であることが嫌になる程悪感を嗾(そそ)らしめた自警的暴行団体を中心とする精神的供養ではあるまいか」
同年8月24日付の投稿(水島三之助さん)は、日本の対外的な評価を危ぶむ。
「復興事業はもとより急務である。しかしながらわれわれの国際的の信用を厚くし、否進んで欽仰(きんぎょう)の的となるやうに務むることは更に大である。即ち九月一日には罹災鮮人の追悼会を盛んにすると共に(中略)要するに国民の情熱を此の問題に向けることが最大の急務だ」
朝鮮人からの投稿もあった。
27年(昭和2年)9月24日付に「淀橋金鮮人」ペンネームによる投稿。
「あの当時『鮮人』がどうしたとか、事実ありもしない逆宣伝が流布されて、あゝした悲惨暴虐な虐殺があった事は直接その下手人は〇〇等であつても、そんな流言を宣伝した新聞にも重大な責任がある」とメディアを批判する。
これらを引用したあと、朝日の記事はこう結んでいる。
《震災直後の認識では、日本人の自警団名などが多くの朝鮮人や中国人らを殺害した事実は争いのないものであった。文芸評論家の中島健蔵や俳優の清川虹子ら著名人を含む多くの目撃証言が残されているほか、国立国会図書館や国立公文書館などには虐殺を示す公文書が保管されている。》(樋口大二)
百年前にも虐殺を繰り返してはならぬと考える人がいて、それらの意見を新聞に載せる判断をした人たちがいたことに、少し救われる思いがする。
実は、アフガニスタンでの農業支援で知られる中村哲さんの父親・勉さんも、関東大震災の時に朝鮮人に間違えられてあやうく殺されるところだったという。澤地久枝さんとの対談集『人は愛するに足り、真心は信ずるに足る』(岩波書店)より。
澤地:お父様は、中学を出てから、さらに学校へ行ってらっしゃるのですか。
中村:早稲田大学中退です。
澤地:それは、誰がお金を出したのですか。
中村:書生としてどこかお金持ちの家に住み込んで、いまでいえば苦学生ですね。ロシア革命の報せを聞いて、じっとしておれなくて上京したらしいです。早稲田大学で勉強しているときに、関東大震災です。それ以来、すっかり東京の人が嫌いになってしまって・・・。
澤地:なぜ嫌いになってしまわれたのですか。朝鮮人の虐殺とか、そういうことと関係がありますか。
中村:まさにそれです。九州訛りが強かったものですから疑われて。いつも、そのことをこと細かに話していましたけれども、隅田川は朝鮮人の死体であふれかえっていたそうです。うちの父も、町内会の一団の人々が、日本刀やら、木刀を持って、通行人を検閲しているのに出会って、「この人は言葉がおかしい」といって、朝鮮人と間違えられて、あやうく殺されそうになった。ところが、ちょうどそこに下宿屋のおじさんが通りかかって、「これは、うちにいる九州から来た早稲田の学生さんだ」と言ってくれて助かったらしい。
これ以来、東京嫌いになってしまって、「あの人たちは、普段は立派なことを言っているけれども、いさというときになると集団で何をするかわからんぞ」と。私もそれを聞かされて、そういう偏見にはぐくまれました(笑)。大杉栄もそのどさくさで殺されました。そのことが日本人のあいだで、すぐさま忘れ去られる。そのことに対して、父はいつまでも憤りを抱いていました。》(P30)
そしてこの話を中村さんは、こう結んでいる。
《自分の身は、針で刺されても飛び上がるけれども、相手の体は槍で突いても平気だという感覚、これがなくならない限り駄目ですね》。
何が「駄目」かというと、日本人が、である。いま、私たちは当時と比べて少しはマシになっているのだろうか?