「小寒」(しょうかん)になり、いよいよ「寒の入り」だ。今から節分までが「寒の内」で一年でもっとも寒い時期だといわれる。今はその初候「芹乃栄(せり、すなわちさかう)」。
きょうは「七草がゆ」の日だが、うちでは芹だけのおかゆを食べた。いい香りを味わいながら、今年も一年、健康ですごせますようにと願う。
年頭、『医師中村哲の仕事・働くということ』というビデオを観た。
これはワーカーズコープ(日本労働者協同組合)が企画して日本電波ニュース社が製作したもので、中村さんの業績ではなく仕事観・労働観に焦点を当てたユニークな作品だ。仕事の価値、命の尊さ、生きる喜びなどに関する中村さんの考え方、感じ方を拾い上げていて興味深い。
中村さんが亡くなったあと、ペシャワール会報の追悼号で、中村さんの片腕だったジア・ウル・ラフマン医師(11月の取材に同行してくれた)が中村さんを「医師でありエンジニアでありましたが、それ以上に哲学者でありました」と評している。
このビデオを観てほんとうにそうだなあと思う。人生にとって大事なものとは何かを考えさせられる言葉が並ぶ。以下、ビデオから拾いながら味わってみた。
《私たちに確乎とした援助哲学があるわけではないが、唯一の譲れない一線は、「現地の人々の立場に立ち、現地の文化や価値観を尊重し、現地のために働くこと」である。》(ペシャワール会報より)
「現地の立場に立つ」とは誰でも言いそうなのだが、実際には意外に難しい。中村さんの活動した地域でも、医療支援に来たキリスト教団体が診療より布教を優先してトラブルになったケースや女性解放などの価値観をもって農村に入っていって反発をかうことがあったという。
ボランティアが「自分探し」で志願したり、本部の指令や組織の都合を重視することもよくある。
「地域の立場」というのは中村さん風に言うと「地域の英語も通じないような人たちの意見をよく聞いて、そして彼らの望むことをまず実現する」ことだろう。(井上ひさしとの対談より) 中村さんは現地で活動するにあたって、パシュトー語にウルドゥー語まで習得していた。
「現地の文化や価値観」の尊重に関する中村さんの深い見識については、先日のブログで触れた。
《「一隅を照らす」とは、私の好む言葉である。我々は現地との深い関わりを縁(よすが)として日本の良心を束ね、共に歩んで労苦と豊かさを分かち合い、以て人間と自らを静かに問い続けるよすがともしたい。
うわべの時流に木の葉のごとく漂うのも石のごとく沈むのも自由なら、我々はあえて時代に迎合せぬ不動の石でありたい。》(会報より)
「一隅を照らす」については本ブログで何度か紹介した。
その次の言葉の解釈は人によってかなり違ってきそうだ。中村さんはあえて「日本の良心」という。中村さんを「コスモポリタン」とイメージする人がいるが、私はそうではないと思う。
どうしてパキスタンの僻地の「らい病」の治療などに携わることにしたのか(しかも奥さんと小さい子どもまで連れて)と問われて、中村さんは「浪花節的ですが、大和魂がだまってられん、ということでしょうね」と微笑みながら答えている。(ビデオより)
中村さんは今の日本、とくに日本人の精神的荒廃に大きな危機感を持っており、「一隅を照らす」活動をつうじてその原状に一石を投じたいと思っていたのではと私はかってに推測している。
《病院にたてこもってじっと待っていたのでは駄目で、予防や教育のために、外にうってでなくてはなりません。
ただ人の窮状を絶叫するのではなく、現実的な本当に効果のある方法で問題を共に解決してゆこうとすることが、私たちの仕事を真に実りのあるものとする道であり、「分ちあう」ということだろうと私は思います。》(会報より)
中村さんは、らい(ハンセン氏病)の治療だけでなく、退院後の生活にも心を砕いた。らいになると抹消神経がマヒして足の裏に傷ができても気づかず症状を悪化させることが多い。そこで中村さんは、靴やサンダルを買い集めて形状や構造を研究し、一人ひとりの変形した足に合わせたオーダーメイドのサンダルをつくる工房を病院の中に開設した。これによって足に傷ができて化膿し再入院するケースが激減したという。
中村さんが「実際家」であることをよく示すエピソードである。
スタッフを前にして「議論は不要、行動あるのみ!」と檄をとばすシーンは印象的だが、とにかくできるところから手を付けろというのが中村流なのだ。
「一隅を照らすというのは、一つの片隅を照らすということですが、それで良いわけでありまして、世界がどうだとか、国際貢献がどうだとかという問題に煩わされてはいけない。
それよりも自分の身の回り、出会った人、出会った出来事の中で人としての最善を尽くすことではないかというふうに思っております。」(『医者よ、信念はいらない まず命を救え!』より)
中村さんは用水路を作ると決めるや、土木工学を学ぶため、娘の教科書を借りて苦手な数学から勉強しなおし、自ら設計図を引くまでになったことは知られているが、どんなに困難にみえても、解決にむけて具体的に一歩を踏み出し自ら取り組む姿勢はすごみさえ感じさせる。まさに「議論は不要、行動あるのみ」。
また、「分ちあう」ことの大事さは、自己実現とか自己責任とか「自分」のことしか考えなくなっている今の日本にこそ必要とされるものではないか。
《弱者は率先してかばうべきこと、職業に貴賤がないこと、どんな小さな生き物の命も尊ぶべきことなどは、みな祖母の教説を繰り返しているだけのことだと思うことがある。》(『天、共に在り』より)
中村さんが幼少期を過ごした北九州の若松港は、筑豊炭田の石炭を積み出す基地として栄え、祖父の玉井金五郎と祖母マンは石炭を船に積み込む沖中仕(港湾労働者)から身を起こして、多くの沖中仕を束ねる玉井組を率いていた。今でいう労働組合の先駆のようなものだが、「ごんぞう」と呼ばれていた沖仲仕は世間では最底辺の人間とみられ、朝鮮人や流れ者なども多かった。祖父母はどんな境遇の人でも一切差別をせず、困っていれば手を差し伸べたという。
「弱い者いじめはいかんと、徹底的に周囲の環境から叩き込まれた。たとえ少数であっても正しいことは正しいことなんだと言って、自分より強い者にはむかうということは美徳だというのが一つの教えだったんですよ。それが昔の日本人にしみついていたことですね」。(ビデオより)
中村さんが自らを「古い日本人」と称するゆえんである。
《命はただ単に経済発展や技術進歩だけで守られないというのが、ささやかな確信である。
必要なものは多くない。
恐らく、変わらずに輝き続けるのは、命を愛惜し、身を削って弱者に与える配慮、自然に対する謙虚さである。》(会報より)
中村さんはつねに二つの関係を同時に考えている。それは「人と人の関係」と「人と自然の関係」だ。
大干ばつを前にして医療から用水路へと転換したことは、中村さんが地球温暖化との闘いの最前線に立ったことを意味する。中村さんは「平和」という切り口で語られることが多く、ここは意外に見落とされがちなので、あえて強調しておきたい。
また「必要なものは多くない」というのは含蓄に富んだ言葉で、以下も参考になる。
「人間にほんとに大事なものは何か、ほんとにこれは絶対必要だとか、これは余計なものだとか、こういうところにいるとそれは非常に鮮明な形で出てくる。その中で、自分の気持ちがそこで少し豊かになっていくことがあったような気がするんですね。それが逆に私たちを励ます。それによって我々養われてきたような気がする」。(ビデオより)
中村さんが、「単にこっちが与えただけじゃなくて、いろいろ受け取るものもある」という中身がこれである。
《己が何のために生きているかと問うことは徒労である。
人は人のために働いて支え合い、人のために死ぬ。そこに生じる喜怒哀楽に翻弄されながらも、結局はそれ以上でもそれ以下でもない。
だが、自然の理に根差しているなら、人は空理を離れ、無限の豊かな世界を見出すことができる。そこで裏切られることはない。》(会報)
人は何のために生きるかという実存的な問題(いわゆるBig Questions)にずばっと答えていてハッとさせられる。これはそれぞれがじっくり考えるべき言葉だ。
ただ、ここでも「自然の理に根差す」べきことを言っていることに注目したい。人間と自然との関係は、中村さんの人生論にとって基本中の基本なのだろう。
《完成した「マルワリード用水路」は、逃げ場を失った多くの人々に希望を与え続けるだろう。私もその一人である。私たちの共有した労苦と喜びの結晶は、人々の命の営みが続く限り記憶されるだろう。これは人間の仕事である。》(『医者、用水路を拓く』より
「これは人間の仕事である」と断言している。自分の仕事をこう語れるとはすごい。ひるがえって「自分は?」と問わざるをえなくなる。
こうしてみると、中村哲という人は、非常に深く思索していただけでなくその思想を「血肉化」している。単に頭で「理解」するのではなく、思想が自身の人格になるまでに染み込ませているように感じられる。
次はこのビデオを離れ、さらに中村哲学、中村思想を探求していこう。
(つづく)